のんびり寄り道人生

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東浩紀氏の「ブクログ大賞」受賞インタビュー

  豪胆さと繊細さを併せ持つ異端の哲学者・東浩紀氏著『ゲンロン0 観光客の哲学』がブックレビューコミュニティサイト「ブクログ」の人文書部門において大賞を受賞されたそうだ

genron-tomonokai.com

 その受賞を記念したインタビュー記事(ブクログ通信)を読んだ。恐らくインタビュアーの方も相当、本書(ほか東氏の著作)に入れ込んでいるのだろう。素直に溢れ出る敬意に加え、その思想を理解するに足る、的を得た応答が続く。語り甲斐のある聞き手を前に、いつも率直な東氏の物言いも、さらに冴え渡っている。本記事は前編・後編のロングインタビューだが、哲学の門外漢にも文脈をたどれば何とか理解できる内容となっている。(以下は同サイトより一部引用)

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―東さんは、ほかの座談でも、ハイデガーの「死へ臨む存在」としての「死の哲学」ではなく、この本は「生殖の哲学」だということも話されていましたが、確かに「生殖」は偶然に左右され、圧倒的に受身で押し流されていますよね。僕らは自分の下半身すらコントロールできない態で生きていますから。一方「死」は、ロマンティズムの陶酔の中で、カミカゼのような選択肢すら選べることになるのだろうと思うのですが、それとはまったく違う、僕らの生きている背丈の中で押し出されているような「生活感情の哲学」を感じます。

そうです。だからやっぱり僕は、ロマン主義があんまり好きじゃないんですよね。ロマンティックに生きる、格好をつけたナルシスティックな人たちが(笑)。僕の哲学というのはだからその真逆の位置です。こう言うとあれですけど、日本でやっぱり哲学や文学やっている人たちの多くはナルシストでロマンチストだと思います。

―そうですよね。

僕はやっぱり人間の資質として違うんですよね。それは正しいとか正しくない以前に、なんか「人格」として違うというか。正直に言えば、僕はわからないんですよ。その彼らの感覚が。だから、僕の文章がちょっと変わっていると見えるのは、たぶんそういう人格的なところが結構大きいのかなと思います。「唯一の死に向かって自分を投企し、それで自分の人生を設計してく」なんてのは、ちょっと僕はよく分からないですね(笑)。何を言っているか分からないって感じですね、生の実感として。

―それは近代主義的にではなく、明らかにポストモダンな現代においてはプラグマティックに生きる作法を勧めたいみたいなことでもありますか?

まあこれは、モダンかポストモダンかっていうよりも、ストレートに人格類型なところがあると思いますね。死のロマンティズムが好きな人は、今もいるし、百年前にもいるし、百年後にもいるんだと思います。そういう人たちはもしかしたら僕の言っていることは永遠に分からないのかもしれない。ただまあ「哲学」はその人たちだけのものじゃないから、僕のような感覚を持っている人たちに合う「哲学」があってもいいと思うんですよね。

それはつまり、僕の基本的な発想では「人生とはほとんど何の意味もなく、一人一人ほとんど何のコミュニケーションもできない」というものです。だから、もし意味とかコミュニケーションがあるとするならば、それは「錯覚」としてしか存在しないわけですね。それが僕の「哲学」です。だから「生きる意味」なんてないんですよ。それに「死の意味」なんてものもなくて。たとえばこうやってインタビューしていても明日にでも交通事故で死ぬのかもしれないし、すべては断ち切られるだけなんですね。

そういう中で、人は「意味」みたいなものを探してしまうんだけど、それは全部実は「錯覚」なんだけど「錯覚だからこそ素晴らしい」という感覚です。僕は。だから「愛」とか「正義」とかも実在しないんですよ。それを実在すると我々は「錯覚」してしまい、「錯覚」するということが人間が人間たるゆえんなんですが、しかしそれ自体を求めてもそれはどこにも存在しないんですよ。

―それはまた『弱いつながり』でも「弱いつながりだからこそ強い」という表現をされていたと思うんですけども、ようは「錯覚であるからこそ尊い」と。

「錯覚」としてしか存在しないものってこの世界にいっぱいあるわけです。だから僕は今の世界を覆っているエビデンス主義みたいなものが非常に嫌いです。例えば「愛」の存在とかはエビデンスはないんですよね。でもまあいわゆる不倫とかDVとかってのが世の中で話題になって、通俗的な言説を見ると「愛」にも物証があるかのような(笑)議論がされているわけですが、本当は「愛」なんてのはどこにも存在しなくって、その瞬間「愛している」としか思ってない。「愛」とかなんにもないわけですよ。たとえば我々はそれをある「かのように」行動していて、その限りでそれは存在するものなんですよね。そういうこの世界には本当は全然存在しない、エビデンスもないんだけど、それが存在する「かのように」みんなが考えているものって実はいっぱいあるんですよね。そういうものについて、そういうものの重要性についても、書いているつもりなんです。

―別の座談でも、東さんは「動物を家族と思ってしまう錯覚」を議論されていたと思うんですけど、その中で「動物の子どもが可愛い」という感覚は、僕らが哺乳類として持ってしまっている生物学的な「錯覚」なんだよという話をされていたと思うんですけど、それはさっきのローティの「憐み」「やさしさ」の部分も、その即物的な「誤作動」だっていう認識を示されていましたよね。

そうだと思います。こう、やっぱ人間のその「誤作動」がなければ社会もなければ人間もないんですよ。だからその合理的に人間が行動すると考えれば、人間は人を助けないべきだし、もっといろんなことがなくていいんですよね。でも人間ってのはいろいろ間違ってしまうもので、その間違ってしまうことこそが社会を作っているんだ、という認識で僕はいるわけです。だから人は間違うことを恐れるべきではない。ていうか「間違えないと人は人として存在しえない」という考えです。

 さらにインタビューは後編に続く。”中小企業のオヤジの悲哀”を味わいながら紡ぎ出していく、東氏の人生観がとても興味深い。

hon.booklog.jp ”ロマンティックに生きる、格好をつけたナルシスティックな人たち”を笑い飛ばし、時に(過剰に露悪的に)自らをさらけ出す東氏の哲学探求は、現代における”娯楽”や”コンテンツ”の一つとして、ただ消費されて終わってしまうのだろうか?あるいは数々の”著名な哲学者たち”を押しのけて、長い歴史にその名を残すのだろうか?早稲田大学教授という(普通の哲学者なら決して離れないだろう)安住の地を自ら離れ、価値共有する仲間たちと共に”獣道”を歩き始め、ようやく世間の支持を集め始めた東氏の活躍を心から嬉しく思う。

 ちなみに、以下は東氏が主宰するゲンロン友の会に寄せられた素朴な質問に、東氏ら運営者が答えるというQ&Aサイトだ。問答はシンプルで簡潔だが、実に奥深い。(以下は同サイトより一部引用)

哲学と経営の関係 | ゲンロン友の声

 哲学者の発言にはなにも科学的な根拠がない。エビデンスがない。だからこそ、哲学者は、現実に触れるために意図的な努力をしなければいけないのです。ぼくにとってはゲンロンの経営がそれです。(東浩紀

 (10/15追記)--------------------------------------------------------------------------------------------

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