のんびり寄り道人生

何とかなるでしょ。のんびり生きましょう

ご近所トラブル

 今日のブログは愚痴が大半なので、適宜読み飛ばしていただきたい。

 

 自宅前に度々、迷惑駐車をされることがあり、引っ越して来た当初から困っている。。。狭い道の真ん中を車体が占有するため、迷惑駐車を見つけた日は、一人がやっと通り抜けられる程の隙間をぬって、壊れたコンクリートの上を、そろりと歩いて出入りせざるを得ない。『なんだ、そんなことか…それくらい…』と呆れられる方が大半だろう。だが、見た目には分からないのが辛いところだが、私は脚が悪い。狭い道をヒョイと通り抜けたり、デコボコ道でバランスを取るのが難しく、平坦でない道を歩く時には相当気を使っているのだ。昨年の冬も雪道で転倒したり、頭を打ったり、手首を骨折したり、目を腫らしたり、鼻血を出したりと、度々”やらかしている”。早速、先月もアスファルトの下から盛り上がっていた木の根に引っかかって転倒してしまった。まるでDV被害者か、喧嘩っ早い人を見る目つきで職場の人たちからドン引きされてしまった。。そもそもこんな身体で”仙人暮らし”を夢見た移住が無茶の始まりだった。だが、いろいろな都市を転々としてきたが、もはや人工的過ぎる都会、ほとんど緑のない土地には住みたくない(身体が嫌悪感を発して止まない)。この歳でこの調子なのだから、さらに足腰が弱る老年期には…。

 さて話を元に戻す。迷惑駐車されることの多い自宅前の小道は、私の名義による私有地ではないので、法的な権利を主張することはできない。聞くところによると、所有権を持っていた会社が倒産したため、一旦は市有地化に向けた動きもあったそうだが、道幅などが法律の適用外であったため市有地化が頓挫してしまったそうだ。そして倒産会社の名義のまま放置されて現在に至っているようだ。だから「誰からも絶対クレームを言われることのない土地であることを知る」ご近所さんたちは誰でも自由に駐車場代わりに、この”私道”を使用していて、実質的に”共有駐車場”となっているのだ。

 これまで1年以上、迷惑駐車の様子・頻度を伺いながら、対応すべき方策について検討を重ねてきた。ご近所で新築・リフォーム工事があるたび、連日業者の車が駐車し、自宅前で休憩している作業員たちの横を、気まずそうに通り過ぎなければならないこともあった。また決まった時間帯だけの駐車(訪問介護?)や、配送業者などの一時的な駐車もあった。配送業者や介護の車などはまぁ仕方ないとして、中には我が物顔で終日車に乗ったまま居座り続けているドライバーがいる。さすがに彼らに対しては直接文句を言ったこともあったが、うわべだけの謝罪はあっても『はぁ?横、空いてるでしょ?あんた、そこ通れるじゃん?』という態度が見え見えであり、いくらドライバーに注意してもイタチごっこであった。。。

 ナンバープレートを証拠写真として撮っておき、迷惑駐車の状況を記録していた時期もあった。だが、どう考えても”ご近所を敵”に回すような態度では、迷惑駐車の”改善”が見込めない。。できれば終の棲家で、”ご近所トラブル”を起こしたくない。だが、いくら冷静になって、時間をかけて検討しても、良いアイディアが思い付かない。。『結局、カドを立てないように私が我慢するしかないのかなぁ…』と、一旦は自分に言い聞かせてみるものの、迷惑駐車を見かけるたびにストレスが積もってくる。。

 「『所有者(法人)が消滅した私道だから誰が駐めてもよい、人が通れるスペースを空けているのだから問題ない』という(たぶんご近所さんたち他の)考えは、やっぱり彼らにとって都合が良すぎるのではないか?もし毎日ではないにせよ、自分の家の前に見ず知らずの車が駐車して迷惑に感じない人がいるのか?」、ある日そんな憤慨がストンと腑に落ちてしまった。悩んだ末の結論だったので、”町内の慣習に挑む勇気”が失われないうちに行動してしまおうと、意を決して迷惑駐車中の1台に歩み寄った。そしてバンパーに『通行の妨げになっています。他の場所に駐車してください』と書いた紙を挟み込んだ。

 すると5分も経たないうちに玄関チャイムが鳴った。玄関戸を開けると、ヤンキー風の男性(私と同年代?)が一人、立っている。開口一番、謝罪はなく、迷惑駐車の貼り紙について確認されたので、改めて駐車を止めてほしい旨を説明した。すると、思わぬ返事が返ってきた。

「そうですか。じゃ、これまで実家に通うために車を駐めていましたが、もう実家には行かないようにします。そうすればいいんですね?』

 積年の不満を吐き出したせいで、こちらの言い方が気に障ったのかもしれない。だが、少し冷静になって『こちらの”情”に訴えようとしているのだろうか?それとも”これ”を機に実家に通わなくてもよいという”格好の逃げ口上”を見つけたのだろうか?』と彼の真意をはかりかねた。この後、後者の推測が的を射ていたことが彼の父によって語られるのだが、シリアスな場面で彼の”本音”が垣間見えたので、つい苦笑いしてしまった。

 何だかんだ、その後も押し問答は続いた。彼が言うには「これまで頻繁に車を駐めたことはない。たまたま今回ちょっとの間、駐めただけ」などと言う。だが、それが嘘だという確信があったので、『ここでキレられたら面倒かな』と懸念されたが、「写真撮ってますよ」と告げた。すると、あっさりと以前も駐めていたことを認めた。

 結局、ふてぶてしい態度ではあるものの「今後は駐めない」と約束してくれて帰って行ったのだが、いつまで経っても車が停まっているので、現地に様子を見に行った。すると、例の男性の横に、見慣れた奥さんがオロオロしながら立っていた。驚いて奥さんに声をかけると、何とその奥さんが男性の母だった。。。その奥さんと旦那さんには引っ越し当初から随分お世話になっており、気まずさが一気に押し寄せてきた。慌てて奥さんに、”こちらの事情”を伝えたのだが、奥さんは「車をもっと端に寄せて駐めたらいい」と言うばかりである。。。いやいや、いくらギリギリ端に寄せてもらっても、マンホールの蓋の出っ張りなどが邪魔して、こちらにとって歩きにくいことに変わりはない。。だが、奥さんにとってはクレーマー住民がせっかく訪ねてくれた可愛い息子を追い出したことに変わりなく、もはや聞く耳を持ってくれなかった。。。

 その後、奥さんから事情を聞いた旦那さんが肩を震わせながら訪ねてきた。要は、「あの道はあんたの土地じゃないんだから、たまに車を駐めるくらいいいじゃないか」ということだ。至極当然な物言いだった。。確かにそうなのだ。2年前の私(脚の痛みがない頃の私)なら、苦々しく感じたとしても通行できればO.K.だった。だけど健康そのものに見えても、今はそうではないのだ。。。何とかこちらの言い分を説明したものの、こちらの頑なさ、融通の効かなさが気に食わなかったのだろう。旦那さんはついに”沸点に達した”ようだった。「ここ以外に駐車場所なんてない!」「以前の住民●●さんは駐車しても何も言わなかったのに!」と声を張り上げた。”介護でいなくては困る”という健康体の息子が(近隣にいくらでもある)他の駐車スペースから歩いて、実家に向かえばよいのでは?という私の提案は一蹴された。。

 旦那さんには以前から脚が悪いことを繰り返し伝えていた。だが、この点は一番伝えたいことだったので、改めて「以前にもお伝えしたと思うのですが、私は脚が悪いんです。いくら端に寄せて車を駐めてもらっても小道のデコボコ部分を歩くと、バランスを崩しやすいので、どうか駐車はやめてください」と懇願した。だが、ようやく理解していただけたと思ったのも束の間、帰り際に「分かりました。息子には駐めさせない。けど、あんたも駐めないでよ。あんたが駐めた車を見つけたら絶対追い払うから!」と、捨て台詞を吐かれてしまった。。。

 ズーン、と一気に心が重くなった。。。今日は早起きして軽く運動をし、美味しい朝食を食べた後、気になっていた展示会に出かけて知識を深めた。秋の美しい紅葉と、まだ寒くない心地良い天候に心満たされながら、何とも有意義な休日の始まりを予感していたのだが、晴れやかな気分は急降下を辿った。。。片付けようと思っていた仕事が、すっかり手に付かなくなってしまった。。。

 何とか音楽で気を紛らわそうと試みたが、駄目だった。。今後のことを考えると、いくら「正しい」と確信して勇んだ行動でも、今回は自分から頭を下げた方が良さそうだと思った。実は、手作りの漬物を日頃お世話になっている、こちらのご夫婦にお裾分けしようと取り置いていた。だが、特段料理がうまいわけではないので、お裾分けのためにわざわざ伺うのをためらっているうちに、やっぱり口に合わないかもしれないと気後れしてしまい、結局持って行かずじまいになっていた。

 ふと「これはいい機会かもしれない」と前向きに思い直した。しばらく時間を置いて、まずはお互い”熱気”をクールダウンさせよう。そして伝えたいポイントを整理しよう。何より態度が肝心。謙虚な姿勢で臨もう。そう自分に言い聞かせて、時が過ぎるのを待った。

 タッパーに入れた手土産を持って、夫妻の家のチャイムを鳴らした。玄関戸を開けた奥さんの顔はやや引きつっており、奥から顔を覗かせた旦那さんも不機嫌さを露わにしていた。「もう●●さんのところの駐車場を借りることにしたよ。もう、あんたのところには駐めないから」と、ぶっきらぼうに言い放った。二人のよそよそしい態度に何だか悲しくなってしまった。。。入居前、ご近所付き合いの”探察”のため、こちらに挨拶に伺った時、奥さんには親切な言葉をかけてもらい、「この人たちなら余所者でも受け入れてくれる。この地でもきっとうまくやっていけるだろう」と安堵したものだ。また旦那さんには荒れ放題になっていた庭の手入れをしてもらったり、たまに顔を合わせた時も笑顔で挨拶する仲であった。それらの良い思い出にヒビが入っていくのを感じて、自然に涙がこぼれ落ちた。

 「あの、恥ずかしい話なんですけど・・・」と話を切り出した。骨折した腕の傷跡を見せながら、健康な人にとっては大したデコボコ道でなくても、脚が悪い私は転倒しやすいこと、いくら車を端に寄せてもらっても車のような障害物があると、いつも心理的に不安であること、デコボコ道で転倒する可能性が今後も続くことが辛いことなどを率直に話した。”泣き落とし”のように見えたかもしれない涙の効果なのか、徐々に旦那さんの怒りは鎮まり、ようやく「他人の家の前に駐車していた自分らが本来悪かった…」と非を認めてくれた。そして私の発言のうち何が一番腹立たしかったのかについて素直に語ってくれた。『駐車頻度に関する事実認識が違っていることが原因だ』、旦那さんの話を聞きながらスレ違い*に気づいた。だが、せっかくまとまりかけた和解をぶち壊さないよう、その点は曖昧なままに濁し「こちらの確認不足」を謝罪した。

*旦那さんは「息子はしばらく実家に顔も出さなかったので、先日怒ったところ今日になってようやく2ヶ月ぶりに顔を出した」という。だが、間違いなく先週も同じ車が停まっていたのだ。こちらが腑に落ちない様子でいると、旦那さんは奥さんに「アイツ、前いつ来た?」と尋ねた。「さあ、1ヶ月ぶりかしらねえ?」と奥さん。旦那さんは自説が補強されないことに苛立ったようで、続けざまに「2ヶ月ぶりだろ」と言い含めた。内心『当事者二人で1ヶ月間の差って、信憑性が疑われるなぁ・・・』と思ったが、「私が先週見たのは息子さんの車ではなかったのかもしれません、すみません、私の記憶違いのようです」と頭を下げた。私が娘なら頑固親父がいない時を見計らって実家にやって来る可能性も十分あるだろうと思ったが、もちろん口には出さなかった。

 とりあえず迷惑駐車1台については何とか決着した。だが、今後も他の車が入れ替わり立ち代わり迷惑駐車を繰り返すだろう。。。あまり頻繁に続くようなら、今度は第三者(町内会長)に相談してみようかと考えている。ご近所の結束がある中、新参者の相手をしてくれるかどうかは微妙だが、やれることはやっておきたい。結果、嫌がらせなどされたら目も当てられないが、その時はその時で”見切り”を付けて、この地を去るほかない。。。

 いずれにせよ、”今日の一件”がご近所に広まるのは時間の問題かもしれない。それで迷惑駐車がなくなれば万々歳である。まぁ、ご近所さんたちからは”面倒くさい住民”として見られ、白い視線に耐えねばならないかもしれない。闘う哲学者・中島義道先生の言葉が身に沁みる。

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あなたは叫びたいほど苦しい。しかし、特にこの国では、「みんな」が苦しいことはすぐにでも対処すべきなのに、みんなが「なんともないこと」に対して、ひとりだけ苦情を言う人は、激しく憎まれます(こういう人を、私は「善人」と呼びたい)。彼らは、あなたがそんなに苦しんでいるのに、「わがまま」だと言って裁くのです。彼らは子どもが遊んで大声を出すのは当たり前だと思い、公の通りなんだから大声で立ち話をしてなぜ悪いと思っていますので、絶対に話が通じない。いつの間にかあなたは被害者ではなく、「共同体を乱す」加害者に仕立て上げられてしまうのです。(以上、東洋経済オンライン バカな人々と戦って「人間とは何か」を学べ!より)

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「皆、弱者の気持ちがわからなければならない。しかし、強者の気持ちはわからなくてよい」という現代日本の風潮がイヤでなりません。だから、皆、「弱者」になりたがるのです。なぜなら、そのほうがトクだからです――と、つい日頃の怒りに任せて書きつづりましたが、一般に次のような「悩みの法則」があるかもしれません。

(1)重い悩みを抱えている人は、軽い悩みを抱えている人を軽蔑する。

(2)具体的な悩みを抱えている人は、普遍的な悩み(たとえば人は死ぬこと)を抱えている人を軽蔑する。

(3)悩みを抱えている人でそれを外に出さない人は、外に出す人を軽蔑する。

悩む人を嫌う人には、弱者を嫌う本物の強者もいますが、それは一握りであって、大部分の悩む人(ニーチェもここに入る)は、他人の中に自分自身の弱さを見ているようでイヤなのです。すなわち、何らかの(本人にもわからないかもしれない)深い理由により、悩みを直視すると自分が壊れてしまいそうなので、絶えず自分は「悩みがない、悩みがない」と言い続けている。

それはそれなりに努力がいりますから、そんな努力もせずにうめき声を上げているヤカラは腹立たしくて仕方ない。こういう人が、「悩んでいる人」をとても嫌うのです。これまで私はこういう感じの人にずいぶん巡り合ってきました。

また、次のことも知っておく必要があります。私のように悩み苦しみ、それなりに克服してきた人間は、意外に悩んでいる人に対して冷たい。悩みの「大きさ」や「重さ」は完全に個人的であるにもかかわらわず、自分の悩みはそんなチャチなものじゃなかった、という「誇り」がつい頭をもたげてきて、眼前の悩んでいる人を「軽蔑して」しまいます。(以上、東洋経済オンライン 悩みがないなら、不幸な人に思いを馳せよ!より)