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『論語』入門 古いからこそいつも新しい思想

 「『論語』入門  古いからこそいつも新しい思想」を読んだ。本書は初学者向けに編纂されたバラエティ豊かなアソート本だ。

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【新しい『論語』】

 

【『論語』に学ぶ】

 

【小説】

 

 本書は”入門書”としては、あまり親切な本ではないようだが、各著者による”多様な論語の読み方”を提示することで、より自分に近い世界観を”取っ掛かり”として、読者自身が自分なりの”論語読み”をスタートさせる意図があるのだろう。一般書なら付随する”あとがき”や”おわりに”などもなく、編纂にあたっての方針なども全く記されていない。第三者的な視点で『論語』を概括的に知りたい人は他の本を手に取った方が良いだろう。本書はあくまでも『論語』ラバーズによる”私の論語”本だ。ただ『論語』をざっくり知りたいだけなら、”まとめ”サイトの方が分かりやすいと思う。論語 - Wikipedia

 春秋時代の中国の思想家、政治家でもあり、儒家の始祖とされている孔子の言行を、師匠の死後、弟子たちが後世に残そうと記録し始め、それらをまとめたものが『論語』と言われている。『論語』のような古い書物が長い時を経て、様々な解釈がなされることは必然であり、今更検証可能な”正解の読み方”など存在しないのだから、自分なりの”自由な読み方”をすればよいのだろう。もちろんあまりに根拠薄弱な、好き勝手な解釈を施すのもどうかと思うが、専門家の”常識的な解釈”に縛られたまま、一義的に『論語』を理解するよりも、気負わず素直な気持ちで読み進めれば良いのだと思う。もし自分なりの理解で心動かされた箇所があったならば、ただそのまま受け止めればよい。時々「『論語』は教条的過ぎるから嫌い」「孔子は、実は男尊女卑主義者」などと、まことしやかに言われているが、それは時代背景を無視した、言葉尻を捉えたに過ぎない偏狭的な解釈だと思う。

 それにしても能楽師安田登氏、安冨歩東大教授、高橋和巳氏、中島敦氏の”論語愛”はストレートだ。彼らの文章が読みやすく、私の理解が及んだだけなのだが、いずれも読み応えのある、彼らの情熱がまっすぐ伝わってくる内容だった。とりわけ中島敦氏の小説「弟子」は若い頃に読んだことがあったが、人生経験をたっぷり積んだ今、再読すると、あの頃以上にしみじみ心に染み入ってくる。(以下、青空文庫 中島敦 弟子より一部抜粋 ※太字は振り仮名

 子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口を極めて賞める顔回がんかいよりも、むしろ子貢の方を子路推したい気持であった。孔子からその強靱きょうじんな生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬しっとではない。(子貢しこう子張輩しちょうはいは、顔淵がんえんに対する・師の桁外けたはずれの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事に拘こだわらぬ性たちでもあったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟じゅうなんな才能の良さが全然呑のみ込めないのである。第一、どこかヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。そこへ行くと、多少軽薄けいはくではあっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気付かれる所だが、しかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝いっかつを喰わせることもあるが、大体において、後世畏おそるべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。

 中島氏は、主人公を師匠である孔子ではなく、弟子の一人である子路を中心に据えた。孔子と弟子たちとの関わりの中、日常的に弟子たちどうしの”比べ合い”があったのだろう。互いに刺激を受け合いながら、何より目標とする師匠に一歩でも近づくべく(認められるべく)、日々、切磋琢磨していたのだろう。そして諸侯に任用される師匠に付き従った、流浪の旅は続く。

 衛に出入すること四度、陳に留まること三年、曹そう・宋・蔡・葉・楚と、子路孔子に従って歩いた。

 孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今更望めなかったが、しかし、もはや不思議に子路はいらだたない。世の溷濁こんだくと諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣ふんまん焦躁しょうそうを幾年か繰返くりかえした後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸ぼくたく」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。匡きょうの地で暴民に囲まれた時昂然こうぜんとして孔子の言った「天のいまだ斯文しぶんを喪ほろぼさざるや匡人きょうひとそれ予われをいかんせんや」が、今は子路にも実に良く解わかって来た。いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧ちえの大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措きょその意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。朴直ぼくちょく子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。

 放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。圭角けいかくがとれたとは称し難いながら、さすがに人間の重みも加わった。後世のいわゆる「万鍾ばんしょう我において何をか加えん」の気骨も、炯々たるその眼光も、痩浪人やせろうにんの徒いたずらなる誇負こふから離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。

 翻って、孔子から見た子路はどうであったか?乱世にあって誰よりも現実的な視点を持ち合わせたリアリストとして、周辺小国の政治をサポートしていた孔子子路評が、なかなか興味深い。世間ではバカにされるような子路の資質も、孔子の目には違う風に映っていたのだろう。

 上智と下愚かぐは移り難いと言った時、孔子子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍ひょうかんな弟子の無類の美点を誰だれよりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀まれなので、子路のこの傾向けいこうは、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚おろかさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。

 人を育てる師匠は、まず人の資質を見抜く必要がある。よく教育関係者らが”子供たち一人ひとりの個性を伸ばす”などと簡単に言うのだけれども、その”個性”をちゃんと見抜く資質がある人だけが使ってほしいものだ。陳腐化したスローガンに人の心を動かす力はない。