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今村昌平監督・映画「楢山節考」(1983年)

 今村昌平監督・映画「楢山節考(ならやまぶしこう)」(1983年)を観た。

tsutaya.tsite.jp

 本作は、棄老伝説を題材とした小説家・深沢七郎同名小説と、同じ著者による小説「東北の神武たち」(とうほくのずんむたち)を元に、リアリズム映画の名手である今村昌平監督によって映画化され、1983年カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した名作だ。日本の貧しい農村というローカルな設定ながら、生死を巡る人間の根源的なテーマを扱っているためか、本作は世界各国語に翻訳されており、海外での評価も高いようだ。

 ちなみに以前、原作の小説を読んだことがある。また本作の前に映画化第一弾として制作された巨匠・木下恵介監督による「楢山節考 」(1958年)も観た。だが、いずれもどうもしっくりこなかった。前者は、題材が題材だけに活字だけで読むと、あまりに閉塞的で重苦しく、暗い気分になった。。また後者は長唄ミュージカル映画!?という”違和感”の方が先立ってしまって映画に集中できず、通しで観られなかった。。結局、私の場合、重厚なテーマの中にも、ある程度のユーモアや大自然雄大さ・美しさ・力強さが際立つ映像が、心を癒やしてくれる本作に落ち着くようだ(農民姿の緒形拳もめちゃくちゃカッコイイし♪)。個人的に映画は、なるべく多くの種類の作品を鑑賞したいので、同じ映画を繰り返し観ることはあまりないのだが、この映画だけは例外だ。数年に一度はふと思い立った時に、つい観てしまう(自分の意思で「観る」というより、「観させられている」という感覚に近い)。

 なぜこの作品に、これほど惹かれるのか?自分でもよく分からない。年齢を重ね、本作が投げかける主要なメッセージ(先立つ親をどのように見送るのか?子がいない自分は、どうケジメをつけるのか?など)が”他人事”ではないと、身につまされて感じられるからかもしれない。映画を観るたびに何かしら得るものがある。今回は鑑賞後のネットサーフィンで、映画の舞台裏を解説してくれる、かなり面白いサイトを見つけたので、ますます本作の”深み”にはまりそうだ。

「楢山節考」 全製作記録 ① - 今村昌平ワールド

 ところで、本作はあらすじだけを聞くと「口減らしのために貧しい村の風習として子が親を捨てに行く(「楢山節考」の主人公・おりん婆さんの場合は、親が進んで捨てられに行く準備を整える)」という何とも非情なストーリーのせいか、友人たちに本作を勧めても鑑賞にまでは至らないようだ。もちろん無理に鑑賞や高評価を押し付ける気はないのだが、中には『ふ〜ん、そういうの、好きなんだ・・・(あなたはそういう”考え”の人なのね)』みたいな、短絡的な”判定”をしてくる人がいたので、今では気軽に本作を紹介することもなくなった。ま、「”死”などはまだまだ先の話だ」と、”生”を謳歌しているうちは、それが普通の反応なのかもしれない。自分が大切にしている世界観は、あまり気軽にオープンにしない方がよさそうだ。

 さて、このところ「楢山節考」の世界に、どっぷり浸っていたせいか、ふと目につくニュース、心象に残るニュースも、”人間の死”を巡る問題に関連している。

www.afpbb.com

 昨年10月、オランダ保健相と司法相が議会に書簡を送り、安楽死法が適用される人の対象について、病気でなくても「人生に意味を見いだせない」人をはじめ、「自立性の喪失を深く感じている」人や「孤立したまま、あるいは愛する人を亡くして孤独になった」人にまで拡大すべきだと提案した。

北海道今金町の住宅の玄関にある冷凍庫内から高齢女性の遺体が見つかりました。遺体に外傷などはなく、室内にも荒らされたような形跡はないということで、道警は事件性の有無を調べています。

3月24日追記:女性の死因が窒息死であることが分かりました。

 北海道今金町のニュース(第一報)を読んだ時、他人に迷惑をかけず、自分の死を全うしようとする、主人公・おりん婆さんを思い浮かべた。事件性の有無はまだ調査中のようだが、遺体の腐敗を配慮して冷凍庫に自ら入り、運搬を考慮して玄関に冷凍庫を置いたとすると、自死である可能性も説明がつく。もし、そうなら亡くなられた高齢女性は、もの凄い意思力、他人への配慮、知恵の持ち主だと感嘆する。ある人は山登りで滑落し、ある人は冬の風呂場で心臓発作で倒れる。事故死と自死の境界は、それほど明瞭ではないのかもしれない。

 先進国オランダにおける安楽死法の適用対象の拡大に向けた動きもそうだが、”豊かな”社会にあっても死に急ぐ人たちは一定数いる(逼迫した国の財政事情が彼らの”意思”の追い風となっている面もあるかもしれない)。世間で言う程、不老長寿を願う人たちばかりではない。日本でも”高齢者”が”問題”とされるニュース(超高齢社会を支える福祉予算の不足、高齢ドライバーによる事故の多発など)が連日報道されている。そういう社会の風潮を受けて、心理的に”あの世行きを急かされている”と感じる老人も(中には若者や中年も)少なからずいるだろうと推測する。

 単なる昔話で終わらない「楢山節」+「考」の神妙なタイトルが実に感慨深い。以下、393夜『楢山節考』深沢七郎|松岡正剛の千夜千冊より引用

 ところで、ぼくは『楢山節考』を読むたびに、泣いた。楢山に雪が降ってきたところなど、困るほどだった。
 そのように僕が泣くのをわかっていて、辰平に「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」と言わせるあたりは、これは深沢七郎の憎いほどの、しかしながら歌を作ったり唄ったりすることが好きな者だけが知る演出なのである。しかしそれは、ぼくが野口雨情の唄に何度でも泣くように、深沢七郎が自分のつくった歌の泣きどころをよく知っているということにすぎないのであろう。
 物語は最後にこんな歌が出て、終わる。これが最後の最後の一行になっている。

なんぼ寒いとって 綿入れを
山へ行くにゃ 着せられぬ

 (参考)辰平は主人公・おりん婆さんの息子。「雪が降って運がいい」と言っているのは、雪が降るような寒さの中、飢えや孤独などに長く苦しめられることなく、母が凍死できることを喜んでいる。おりん婆さんが事前に「自分が”行く”時は、きっと雪が降る」と予言していた。