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NHK Eテレ「100分de名著~ジャン=ポール・サルトル編~」

  NHK Eテレ100分de名著 - NHKジャン=ポール・サルトル編~」を観た

 フランスを代表する世界的哲学者ジャン=ポール・サルトルが唱えた実存主義の思想は、原書(訳書)で読解するには難しい内容だが、フランス文学者・海老坂誠氏のコンパクトな解説と、視聴者(自分)目線で語る案内役の伊集院光氏の”咀嚼力”が功を奏していて、本番組は読書が苦手な初心者にも馴染みやすい教養番組となっている。

 ただ、個人の好みだとは思うが、今回の朗読者は(舞台役者なのか)演劇的過ぎて興冷めだったなぁ…(レヴィ=ストロースの回を担当した舞踊家田中泯氏くらいがちょうど良いのだが…)。またアニメーションが味わい深かったのでクレジットを調べると、公式HP「よくある質問」に記載があった。映像制作ユニット「ケシュ#203」の仲井陽さんと田中希代子さんによる作品だという。こういうアーティスト、表現者の才能を活かせる場所は、もっと多いはずだ。ちょっとした作品でも”添え物”として扱わず、きちんとクレジットを表記することで、名が知られていないアーティストでも人々の目に留まりやすくなり、彼らの仕事も(少なくとも食べていく程度には)増えるだろうと思うのだが、どうだろう?現実はそれほど甘くないのだろうか?

 話を戻そう。番組では全4回のうち、第1回では評論『実存主義とは何か』と小説『嘔吐』が取り上げられた。一見、机上の空論のようで、ちょっと取っ付きにくそうなタイトルだが、取り扱うテーマは「人間の生き方」そのものであり、人間なら誰にでも関わることである。

 

<以下、全て同番組(ナレーション含む)より引用。下線・太字は引用者>

「実存が本質に先立つ」とは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。

 

それゆえ人間は自らの本質を選びとった上で未来をつくりあげなければならない。それがサルトルが宣言した人間観でした。

 

 あらゆるものは偶然的に実存(存在)するのであって、決して世界は必然的なものとして、まずあるわけではない。(もちろん創造主である神を信じる人たちにとっては、そうではない)。だから「自分は”何者か”※である」、「自分はこうあるべきだ」という”思い込み”を脱して、「自分は”何者”でもない」という原点から出発すべきではないか?自分の価値を決定するのは自分だ。だから人間は自らの決断によって人生をつくり上げなくてはならない、ということか。それに伴い(番組の第2回で取り上げられているが)、サルトルは「人間は自由という刑に処せられている」という名言も残している。

※ここで言う”何者か”というのは、いわゆる一角の人物(優れた人物、ある方面に長けた人物)ということではなく、他者が自分を認識する”属性”のことだろう。自己認識ではなく、他者に貼られた”ラベル”だと言ってよいかもしれない。例:男、女、日本人、医者、患者、教師、学生、経営者、従業員など

 

 当時、世界的”ご意見番”として社会問題に対しても積極的に発言し、行動する、戦う哲学者・サルトルの思想を、たった100分のTV視聴で咀嚼できたとは思わないが、いろいろと心に響くことがあった。とりわけ「人はどうあるべきか。どう生きるべきか」という人類の永遠の問いに対して、生涯を通して向き合い、自らの哲学を”言行一致”で徹底しようとした姿勢には感服した。また一面で、自らの崇高な理論にかこつけて⁉、”必然的な恋”と”偶然的な恋”を巧みに使い分けた”チャッカリさ”もあったようだ。男女関係に自分の理論を応用するとは!フランス人のウィットなのか、あるいはいたって本気で言ったのかは分からないが、ちょっと笑えるエピソードだ。

 ある識者が述べた「サルトルは、”認識”においては悲観主義であるが、”意志”においては楽観主義」という指摘はもっともだ(できれば自分もそういう人間でありたいと思う)。どんな状況においても何らかの希望なくして人間は生きていけないし、逆風の中、未来に向かって前に進めない(サルトルの言葉では”投企できない”)のだ。

 番組の第4回(サルトル最終回)では、失明して執筆を断念した、晩年のサルトルラストメッセージとして、ユダヤ人哲学者・ベニ・レヴィとの対話「いま 希望とは」が紹介された。

世界は醜く、不正で、希望がないように見えるといったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望だ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分では分かっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さねばならない。

 ちょっとキレイ過ぎる”ラストメッセージ”のような気がしなくはないが、海老坂氏が解説するように、この言葉を発したことそのものが、サルトルにとっては彼の思想である”投企”であったのだろう。自ら築いてきた哲学体系をどのように着地させるか?”終焉”が近づくにつれ、サルトルも相当に意識していたはずだ。

 ウィキペディアによると、本稿に関して長年の連れ合いであるシモーヌ・ド・ボーヴォワール(女性の解放を求めて闘ったフェミニスト)から”突っ込み”が入ったそうだ。彼女は「かつてのサルトル実存主義思想から(本稿は)大きく転換していて、対話相手のレヴィが、加齢により判断力を失ったサルトルをかどわかして書かせた」と主張したらしい。しかも(出版?)取り消しをサルトルに迫ったそうだが、サルトルは、これは歴とした自身の思想であるとして退けたのだという。このエピソードが事実だとすると、引用文(下線)の「自分では分かっているのだが」というエクスキューズが意味深くなる。

 さて、事実は藪の中だが、たとえ晩年のサルトルの思想に”変遷”があったとしても、何ら驚くことではない。ボーヴォワールは「加齢により判断力を失った」と言ったそうだが、死を前にしたサルトルは、ある種の”境地”に達したのかもしれない。そこで思考の飛躍が起こったとしても不思議ではないし、そういう変化はいくら生涯の伴侶とはいえ、他者であるボーヴォワールにもすぐには理解されないだろう。少なくとも一貫して自己主張を変えない頑迷な哲学者の思想よりも、歴史の流れにあって時代に翻弄されながらも自己の経験を通じてダイナミックに練り上げられてきた思想の方が、はるかに信頼に足るのではないか?サルトルの言葉を素直に受け取りたい。

 では早速サルトルの著作を読もうかというと、正直、まだ腰が重い。。学生時代にあの難解な文章を読み切れなかった、挫折体験をまだ引きずっているのだろう。。もし(実に読みやすい文章を書いてくださる)内田樹先生あたりが解説本を書いてくだされば、もちろん書物を手に取ってみるかもしれないが、今はまだもう少し待っていてほしいという気分である。