のんびり寄り道人生

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黒い巨塔 最高裁判所

 瀬木 比呂志 (著)『黒い巨塔 最高裁判所』を読んだ。

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(以下、『黒い巨塔 最高裁判所』内容紹介より抜粋)

第2回城山三郎賞受賞作家にして最高裁中枢を知る元エリート裁判官が描く、本格的権力小説!司法権力の中枢であり、日本の奥の院ともいわれる最高裁判所は、お堀端に、その要塞のような威容を誇っている。最高裁の司法行政部門である事務総局の一局、民事局で局付判事補を務めることになった笹原駿は、事務総局が、人事権を含むその絶大な権力を背景に、日本の裁判官たちをほしいままにコントロールしていることを知る。 最高裁に君臨する歴代最高の権力者にして超エリートである須田謙造最高裁長官は、意に沿わない裁判官を次々に左遷し、最高裁判決の方向さえ思うがままにあやつる。須田とその配下の思惑に翻弄される女性最高裁判事、怪物地家裁所長など自己承認と出世のラットレースの中で人生を翻弄されていく多数の司法エリートたち。彼らは、国民の権利と自由を守るべき「法の番人」としての誇りを失い、「法の支配」とは無縁の上命下服の思想統制に屈服していく。 しかし、須田を頂点とする民事系裁判官支配を覆そうともくろむ刑事系エリート裁判官たちは政権中枢に働きかけ、原発訴訟で電力会社に有利な判決を出すよう須田に圧力をかけさせる。須田は、この危機を乗り切るために、みずから積極的に動く。 絶対的な権力者である須田の変幻自在、縦横無尽の活動に、民事局、行政局の局課長と局付たちは右往左往し、原発訴訟の方向性を決める裁判官協議会の実務を取り仕切る主人公笹原も、否応なく巻き込まれていく。そのころ、笹原の親友であり福島地裁原発訴訟に打ち込む如月光一判事補は、初の原発稼働差止め判決を出す準備を進めていた。原発訴訟に対する須田の強い意向を知る笹原は、如月に警告するが、如月は耳を貸そうとしない。 全国裁判官の原発訴訟協議会に向けて、電力会社に有利な判決をゴリ押しする上司たちと原発の安全性に疑問を持つ笹原ら民事局若手局付たちの対立も、先鋭化していく。(略)

 すっかり病院の代名詞として人口に膾炙している『白い巨塔』に模した”二番煎じ”を狙ったネーミング(タイトル)なのだろうか?『黒い巨塔』が最高裁判所の代名詞として語られているのを本書で初めて知った。インターネットで調べてみると、裁判官の黒い法服は「どんな色にも染まらない」という気概を表しているらしい。(この何とも”お堅い”センスが司法エリートらしくて、ちょっと微笑ましい)。

 最高裁判所の内情をよく知る元裁判官が書いた本書は”純然たるフィクション”らしいが、登場人物たちの心情の機微や、権力にまつわる駆け引きのリアルな描写に裏付けられて、”自己承認欲”の赴くままに”出世のラットレース”をひた走る司法エリートたちの生態を垣間見た気がした(正直、謎の多い美少女やエンディングの場面は、取って付けた感が否めないが…)。また原発訴訟を巡る司法の視点を、登場人物たちの具体的な言葉で知ることができたのは大変よかった。報道で語られる内容は、ほんの一部でしかないからだ。

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 それにしても著者自身を守るためには、この”純然たるフィクション”という点は、よほど重要なことなのだろう。「まえがき」で「この作品は、架空の事柄を描いた純然たるフィクションであり、実在の人物、団体、事件、出来事等には一切関係ありません」と述べた上、さらに「あとがき」でも「(略)この小説はいわゆる実録物、実録小説では全くない(略)作中の人物、事件はすべて私の創作である」と強調している。ますます”背後に潜む権力”を感じて少しおぞましい気がする(穿ちすぎだろうか?)。たぶん最高裁判所に限らず、選び抜かれたエリートたちで構成されている巨大組織においては、ここで描かれているようなことは、日常茶飯事なのかもしれない。本書を読み進めながら「(こんなこと)あるある」「(こういう人)いるいる」と、過去に出会ったエリートたちを思い浮かべた。

 物語が終盤に近付き、幾つかの名ぜりふにスカッとした。勢いに任せて主人公・笹原が最高権力者である須田長官に立ち向かって雄弁に語るシーンがその一つだ。(以下、『黒い巨塔 最高裁判所』本文より引用)

須田:君の言うことは一から十まで、すべて理想論だ。そういう理想論で日本の社会が動くなら、大変結構なことだがな(略)

 

笹原:だって司法が理想論を吐かなくてどうするんですか?司法の役割というのは、痩せても枯れても理想論を吐き、筋を通すことにあるのではないでしょうか?司法が立法や行政と一緒になって『政治』をやっていたら、法の支配だって、正義だって、公正だって、およそありえないと思いますが

(略)

笹原:(略)長官にも、二つほど、おわかりになっていらっしゃらないことがあるように思います。一つは、人間の行動や考えなどというものは、予測のつかない制御不可能なものだということです。現に、私自身、ついさっきまで、自分があのようなことをここで正にするとは、全く考えておりませんでした。しかし、結局、そうしてしまったわけです。そのように、人間というものは、自分の運命を決定することができるような人物の前でさえ、その意に沿わないことを、どうしても言いたくなるときがあるのです。きわめて弱い立場にある人間にでも、なお、そのようなことはありうるのです。(略)私が申し上げたいのは、人間の行動や考えには、そのような事が否定しがたくあるのですから、それをただ一つの枠組みで統制、制御し、ひいては支配しようとするような試みは、たとえその意図に正しい部分が含まれているとしても、いつか必ず破綻をきたすのではないか…そういうことです。

(略)

笹原:もう一つあります。それは、長官の行われていることがまさに『政治』であって『司法』ではなく、右と左の真ん中を行くというその制御方針も、確固とした原理、原則によるものではなく、ただ、その時々の権力の方向にみずからの制御方針を合わせておられるにすぎない、そうした、きわめて日本的なバランス感覚にのっとった『政治的感覚』によるものにすぎない、そうなのではないかということです(略)

 

 小説の中とは言え、最高裁判所という司法界の頂点にあって、そのトップ(最高裁判所長官)が『政治的感覚』で司法の仕事をやっている、という指摘が興味深い。部下の本音としては「長官、三権分立って知ってますよね?あなたは政治家じゃないんですよ。司法のトップとしてダメなものには、ちゃんとダメ出ししてくださいよ!」という鋭い突き上げだ。この後の展開で、臆することなく自説を語った青二才に怒り狂った長官も徐々に内省を深めていくことになるのだが、果たして現実はどうなのだろう?ヒエラルキーのトップに立つ人間が、こんなにもあっさりと改心するなんてことはやっぱりないんだろうな…と思えてしまう。

 日本国憲法は、国会、内閣、裁判所という三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する『三権分立』の原則を定めている。どこもかしこも”政治家”ばかりでは、法治国家立憲主義を守ることはできない。安倍晋三首相率いる政府与党の暴走を止められる本物のエリートが、まだ司法界に生息していることを願うばかりである。