のんびり寄り道人生

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エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ 著(西谷 修 監修, 山上 浩嗣 翻訳)『自発的隷従論』を読んだ。

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(以下、筑摩書房ウェブサイト「この本の内容」より)

なぜみずから屈し圧政を支えるのか。支配・被支配構造の本質を喝破した古典的名著。シモーヌ・ヴェイユが本作と重ねて20世紀の全体主義について論じた小論と、政治人類学者ピエール・クラストルが本作をベースに「国家に抗する社会」としての未開社会を分析した論考を併録する。

 本論は、フランス革命のスローガンである「自由、平等、友愛」が根付く前の、16世紀のフランスで、著者であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシが16歳か18歳の時に書き上げたものだという。あいにく32歳の若さで病に倒れ、早逝してしまったが、存命中はボルドー高等法院の評定官として相次ぐ宗教改革(争乱)に対して事態収拾に奔走していたそうだ。(ちなみに16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュはラ・ボエシの同僚であり、無二の親友であったという)。役人として当時の体制側(王権、宮廷、カトリック)を支えながら、著者は若き日に著した持論について、どのように考えていたのだろう?実在するイメージとしては「面従腹背」をカミウングアウトした元・文部科学事務次官前川喜平氏のような人柄だったのではないか?と思う。それにしてもタイトルどおりの直球メッセージは若さの賜物なのか、クールで熱い(=こたつの中でアイスクリームを食べたような読後感だ)。本論は、革命思想の先駆けとして、時の権力者を脅かし、また数々の政治運動で誤解・乱用もされたことも多かったようだが、鋭い観察・批評が、いつの時代にも該当しそうな、人間の悲しい性を実によく表している。(以下、本書より。以降同じ)

多数者が一者に隷従する不思議

 ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである。その者の力は人々がみずから与えている力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからにほかならない。その者に反抗するよりも苦しめられることを望むのでない限り、その者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。

 何百万もの人々がみじめな姿で隷従しているのを目にするのは、たしかに一大事だとはいえ、あまりにもありふれたことなので、それを痛ましく感じるべきではあっても、驚くにはあたらない。彼らはみな、巨大な力によって強制されてというのではなく、たんに一者の名の魔力にいくぶんか惑わされ、魅了されて、軛の下に首を垂れているように私には思われる。しかし、たったひとりである以上、その者の力のごときは恐るるに足りないのだし、(隷従する)彼らに対しては残酷で獰猛にふるまうのであるから、その者に美質があったとしても、そんなものを愛する必要はないはずである。

 われわれ人間は弱いものであって、力に服従しなければならないこともしばしばである。だから、時機を見定める必要がある。だれもつねに最強でいることはできないのだ。(略)

自由はただ欲すれば得られる

 それにしても、なんということか。自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世のなかには、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは!彼らは、ただ願うだけで自由を得ることができるのに、その財を取りもどすための意志を出し惜しんでいる。(略)

 勇敢な者ならば、みずからが求める善を得るためには、危険をまったく恐れない。知恵のある者は、苦労をまったく惜しまない。これに対して、臆病者や無気力な者は、悪に耐えることもできず、善を取りもどすこともかなわない。こうしてこの者たちは、善を望むことをやめる。臆病であることで、善を希求する力を失ってしまうのだ。しかし、善を求める欲望は、自然によって彼らにも残されている。善への欲望や意志は、賢者にも愚者にも、勇者にも臆病者にも共通しているのだ。彼らはみな、手に入ることで自分が幸福で満たされるものなら、どんなものでも望むものだ。

 だが、それにもたったひとつだけ例外がある。自然の力をもってしても、人間がそれを欲しがらないのはどういうわけか、私にはわからない。それこそが自由である。しかるにそれは、きわめて大きく、きわめて甘美な善なのであって、ひとたび失われるや、あらゆる悪という悪が群れをなしてやってきて、そこで辛うじて生きのびた善すらも、隷従によって台なしになり、すっかり味わいと風味を損なってしまうのである。こと自由にかぎっては、人間はまったく欲しない。その理由は、自由は欲するだけで得られるから、ということ以外にはないように思われる。ひょっとすると、この麗しい財産を拒むのは、ひとえに獲得があまりにもたやすいからではないだろうか。

 本書に掲載されているのは、ラ・ボエシによる本論に加え、訳者による注記や解題、監修者による解説、そしてシモーヌ・ヴェイユとピエール・クラストルによる付論など、盛りだくさんだ。リーダーフレンドリーに編集されているので、古典ではあっても初学者にも分かりやすい。また訳者や監修者も指摘されているが、本論は過去に都合よく「切り取られ」、全体主義批判、政治的抵抗などに度々、使われたそうだ。確かに、痛烈な批評性を帯びているため、一見ラディカルではあるものの、100ページにも満たない、明瞭な主張をじっくり読んでみれば、本論の主題が、国制や統治形態の在り方など衒学的な議論にあるわけではないことが分かる。この点についてラ・ボエシは冒頭で、しっかり強調しており、持論がはらむ、政治に関するあらゆる議論を引き起こす可能性についても言及している。

だが、いまのところ私は、これほどまでさかんに議論されてきた問題、すなわち、国制のほかのありかたが単独支配制よりもすぐれているかどうかという問題について議論するつもりはない。が、それでも私は、単独支配制がさまざまな国制の間でいかなる位置を占めるのかということを考える前に、そもそもそれが国制のなかになんらかの位置を与えられるべきなのかどうかを知りたいと思う。というのも、全員がひとりに服従するこの統治形態において、なんらかの公共的なものがあると考えるのは困難だからだ。しかし、この問題はまたの機会に譲ろう。それだけで十分に一篇の論文を要することだろう。というよりもむしろ、それは同時に、政治に関するあらゆる議論を引き起こすことだろう。

 では本論の主題は何か?素直に読めば、誰かに何かに隷従している人たちに向けた「もっと自由になれよ」というメッセージである。

ましてや、このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。

 自由を最も価値あるものとして、のんびりマイペースで生きている私にとって、ラ・ボエシの一言一言が胸に突き刺さり、深く深く共鳴している。と同時に、社会的に”不安定な身”を案じながらも大した行動を起こせない、一人の臆病者・無気力な者として『そうは言ってもね・・・社会で孤立せずに生きるためには、意思に反して”隷従せにゃならん場面”もあるんよ・・・めっちゃストレスたまるけどね。。。』と言い訳の一つもしたくなる。。

 隷従(自由なさ過ぎ)<依存<共存と自立<孤立(自由あり過ぎ) ←こんな感じ?

 結局のところ「共存と自立」の中でバランスを取っていくほかないと思うが、各々の個性や置かれた状況によって、どちらの極に振れやすいかが決まるのかもしれない。イソップ童話「アリとキリギリス」に出てくる「アリ」のような生き方は、とうていできないと早々に見切りをつけたつもりだったが、気づけば食べていくために「アリ」に偽装して「アリ」軍団に混じっている。。。「ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。」というラ・ボエシの一言にハッとしてしまった。真正の「キリギリス」人間として、自由を謳歌したあと命果てれば、それはそれで幸せな一生だったといえるのかもしれない。

童話「アリとキリギリス」から読み取る解釈。3つの結末とともに考察! | ホンシェルジュ

 話は変わるが、シャリーンの歌う「I've Never Been To Me(愛はかげろうのように)」の美しいメロディーが気に入って、何度も繰り返し聴いていた。ふと独白の歌詞が気になって調べてみたところ、自由を”履き違えて”生きた、悲しい女の一人語りであった。「Hey lady, you, lady,(略)Please lady, please, lady(意訳すると、ちょっと、おねえさん、私の話を聞いて)」と、”おせっかい”おばさん?”、かまってちゃん”おばさん?が、若い女性に自らの奔放な人生の失敗談を語りかける、という設定のようだ。あぁ、いつか自分も、こんなおばはんになりそうで怖いなぁ・・・。

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(参考和訳)音時(オンタイム)さん