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乙武洋匡が見たルワンダ「虐殺から24年後」の今

 東洋経済オンライン乙武洋匡が見たルワンダ「虐殺から24年後」の今 コミュニティで共存する加害者と被害者」を読んだ。(以下、同サイトより)

toyokeizai.net

私たちが「ルワンダ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはり1994年に起きたジェノサイド(虐殺)だろう。フツ族の過激派がメディアを使って人々を煽動したことにより、それまで隣人として暮らしてきた人々が暴行を加えられ、多くの命が奪われるという惨劇は、当時のニュース映像や映画『ホテル・ルワンダ』を通して日本にも伝えられた。

癒えない傷を抱えながら生きる国民
あれから24年の歳月が流れた。ルワンダは現大統領の強烈なリーダーシップによって国家再建に成功しつつあり、いまやIT立国として日本からも多くの視察者が訪れるほどになった。あれだけの虐殺が起きたことが信じられないほど人々は穏やかな性格で、「アフリカで最も安全な国」と言われるほど治安もいい。

だが。

急速な発展を遂げる都市部を離れると、24年前の出来事がいまだこの国に大きな爪痕を残していることがうかがえる。人々が自由に行き交う都市部とは異なり、農村部ではジェノサイドの前と後でも変わらずに、人々は同じ土地で、同じ顔ぶれで生活を送るしかない。つまり、ジェノサイドで暴行を加えていた加害者側と暴行を受けていた被害者側が、狭いコミュニティの中で共に生活をしているのだ。

 ろくにタイトルも読まずに「ルワンダ」の”その後”を知ろうと、記事を読み始めた。『ん?この手の記事にしては読みやすいなぁ』と、記事を書いたであろうジャーナリストの、読者への気配りに感心していた矢先、ふと一枚の写真に視線が留まった。作家の乙武洋匡(おとたけ ひろただ)氏であった。現地のNPO創立者と一緒に笑顔で写っていた。『ん?なぜ乙武さんが写っているの?』と思いながら、トップページの著者名とタイトルを読み直した。タイトルに冠された著者名を見落とすとは…。どれだけガッツいて読んだのか…肝心なところをよく落とす…。

 乙武氏は、2016年3月「週刊新潮」のスクープ記事により、愛人5人との不倫が暴露され、一時は活動を自粛していたようだが、最近の再始動ぶりが凄まじい。穿った見方をすれば稼がなければいけない事情もあるのだろうが、謹慎中の海外放浪を通して再び”やる気”に火がついたようだ。(以下、「私がnoteを始める切実な理由。」より)

ネットニュースなどでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、今年4月まで海外を放浪していました。一年間かけて、37カ国・地域。「見聞を広めるため」などと言えば聞こえはいいけれど、正直に言えば逃げたかったんです。日本から。

1998年に『五体不満足』が出版されて以来、ずっと“障害者の代表”のように扱われてきました。もちろん批判の声もないわけではなかったけれど、おおむね好意的に受け止められてきました。三年前までは。

社会的信用は失墜しました。当然のことです。仕事もなくなりました。当然のことです。家族もいなくなりました。当然のことです。多くのものを失って、「さて、この先どうやって生きていこう」と考えました。驚いたことに、何も思い浮かびませんでした。

「だったら、海外にでも行ってみよう」

note.mu

silkhat.yoshimoto.co.jp

 家族、名誉、仕事など全てを失くした乙武氏だが、逃げ去ったはずの場所に再び戻ってきた。自らのことを”エロだるま”と笑い飛ばし、四肢の障碍など、ものともせずに前向きに生きている。端正な顔、持前の愛嬌や知性に加え、SNSという時代のツールを巧みにフル活用しながら、一人一人共感者・理解者を増やしている。語弊があるかもしれないが、これほど健康な精神が宿る肉体を、あまり見たことがない。

 乙武氏の最新著作である『車輪の上』も、ざっくり読んでみた。

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bookclub.kodansha.co.jp

(以下、内容紹介:講談社BOOK倶楽部より)

主人公の進平は、子どもの頃から車椅子で生活している。大学を卒業したものの、就職が決まらないまま上京し、新宿歌舞伎町のハローワークを訪ねることに。ところがその途上で、ひょんなことからホストと口論になり、ホストクラブで働くことになった。源氏名は「シゲノブ」。(略)
ホストクラブで働くうちに、歌舞伎町はレッテルをはられた人間たちの坩堝だということに気づく。ホスト、風俗嬢、LGBT……。夢にうなされながら、そんな人たちとの交流や恋愛を通じて、シゲノブは変わっていく。

 脳性マヒの主人公は、売言葉に買い言葉で「車椅子でもホストなんてやれる」とホストの道へ入って行く。設定は、随分ぶっ飛んでいるが、繊細な描写を通して車椅子の主人公が乙武氏に重なってくる。

 主人公には子どもの頃から、何度も繰り返し見る夢があった。小学五年生の遠足で登山に行くことになったにもかかわらず、自分だけが欠席を余儀なくされたとき。中学生で好きになった女子に告白したら、色よい返事がもらえなかっただけでなく、そのことがクラス中に知れ渡り、「障害者なのに恋愛なんて」という白い目で殴られ続けたとき。半年前、就職活動で第一志望だった企業を訪問した際、面接官の顔に「悪いけど空気読んでよ」というメッセージを読み取ってしまったときなど。(以下、『車輪の上』より)

見渡すかぎりの紫色。

 シゲノブは車椅子に乗ってその景色を眺めている。

 足元には無数の細かな突起が飛び出る岩盤が広がり、左右は鍾乳洞のような壁面で覆われている。さらに天井からは、つららのような長短さまざまな突起が垂れ下がっている。そのすべてが紫色に染められた光景は、視線をどこに向けても気味の悪さと窮屈さを感じさせるものだった。

 気のせいだろうか。

 天井が少しずつ下がってくる。

 つらら状の突起が頭上に迫ってくる圧迫感に堪えられなくなったシゲノブは、その場から逃げ出したいという欲求にかられる。しかし、紫色の無数の突起が飛び出る岩盤の上では車椅子が動くはずもない。シゲノブは思いきって車椅子から立ち上がることにした。

 バランスを取りながら、ゆっくりと腰を浮かせる。やがて完全に立ち上がったシゲノブは、そろりと右足を前に出した。次に左足。右、左、右、左ー。

「歩ける、歩けるぞ……」

 車椅子から離れて無我夢中で歩き出すシゲノブに、しかし追手が迫る。足元の岩盤にあった無数の突起が、突如として細長い触手のような形状に変化して、まるで蛇のようにシゲノブに襲いかかってくる。足元の突起だけではない。頭上にあったつらら状の突起も同じように形を変え、こちらも蛇のようにシゲノブに迫ってきた。

「やめろ、やめろお」

 必死に泣き叫んでも、その悲鳴をあざ笑うかのように触手がシゲノブの手や足に絡みつく。引き倒され、地面に這いつくばり、声にならない呻き声が漏れる。その間にも天井はどんどん下がってきて、シゲノブの体を押しつぶそうとする。

「やめろおーっ!!」

 シゲノブはベッドから飛び起きた。全身ひどい汗で、濡れたシャツが体に張りついている。

 主人公が嫌な夢を見るときは、決まって状況が悪い。両親の離婚危機。恋人や友人ともうまく行かない。行きつけの飲み屋すら閉店していた。 

気がつくと眼前には紫色の樹海が広がっていた。

 いや、それが樹海なのかもわからない。それは鍾乳洞のようにも見えたし、紫色の溶岩流がどこまでも大地を覆っているようにも見えた。その色合いも、葡萄の房や茄子などを連想させる色艶のいい紫ではなく、どこか灰色がかった、気味の悪い、毒々しさを感じさせる紫色だった。

 シゲノブは車椅子の座席の上から周囲を窺がっている。動物の鳴き声も、鳥のさえずりも、風の音さえも聞こえない。その不気味な静寂に、シゲノブの息遣いだけが響いていた。ふと気配を感じて振り返ると、無数の木々の枝や蔓のようなものが絡まり合い、紫色の壁を作りながらシゲノブに向かって迫ってくる。

 得体の知れない紫色の圧迫感に耐えきれず、シゲノブは全力で車椅子を漕いで、そこから逃げ出そうとした。しかし、地面に張り巡らされたおびただしい数の紫色の蔓が車椅子の車輪に絡まり、いくら両腕に力を込めてもびくともしない。このままでは後方からやってくる紫色の壁に押しつぶされるー。

 恐怖心を刺激されたシゲノブは、思いきって車椅子から立ち上がってみた。一歩、また一歩と足を踏み出す。思いのほか順調に足が前に出る。なんだ、歩けるじゃないか。

 この記憶はどこかで……そうだ、これは夢だ。幼い頃から見続けてきた夢の世界だ。この先はきっと、歩けるようになった喜びもつかの間、蛇のようにも見える無数の蔓が足に絡みつき、全身を縛られ、その痛みと恐怖にのたうち回るおぞましい場面が訪れるのだ。そんなことは知っている。知っていれば恐怖など感じない。これは夢なのだ。

 しかし、どうにも様子がおかしい。そろそろ地面にはびこる無数の蔓が、足元に絡みついてきてもおかしくない頃だ。だが、それらは眼下でもぞもぞと蠢いてはいるものの、車椅子に頼ることなく歩けるようになった両足に、一向に絡みついてくる様子がない。

 もしかしたら夢ではないのかもしれない。ほんとうに歩けるようになったのかもしれない。車椅子から離れ、障害者ではなく、健常者として生きていけるようになったのかもしれない。

 ほら、見ろ。こんなに歩けるぞ。

 いや、待て。脳性マヒの障害者が、こんな長い距離を歩けるもんか。

 歩いてきた道のりを確認しようと振り返るシゲノブ。あれだけの恐怖を感じていた紫色の壁ははるか遠い。車椅子だって、もう豆粒ほどの大きさにしか見えない。ずいぶん長いこと歩いたせいか、喉の渇きを感じた。シゲノブは両膝に手をついて、大きく息をついた。静寂を破る乱れた息遣い。しかし、その息遣いに混じって、どこからか地響きのような音が聞こえる。遠くから聞こえるかすかな地鳴りは、次第にこちらに近づいてくるように思われた。

 まっすぐに背筋を伸ばし、周囲を窺った。轟音はいよいよその距離を縮めてくる。後ろだ。振り向くと、さっきまで豆粒ほどの大きさだった車椅子がはっきりと識別できるほどの距離に迫っている。シゲノブは走り出そうとした。しかし、ようやく歩けるようになったばかりの男に駆け出すことなどできやしない。あっというまに足がもつれ、蔓につまずいて転倒した。車椅子はそんなシゲノブをあざ笑うかのように猛スピードで突進してくる。

「やめろ、やめてくれ……」

 実体験を通して、どんな夢を見るかは、その夢を見た時の精神状態を、ある程度反映しているのでは?と感じている。他人に自分の弱さを、さらけ出せない(=カッコつけたがり)。自分で自分の弱さを認めたくない(=負けず嫌い)など。そんな性格なら、なおさらである。意識的に弱さや恐怖など負の感情を”隠す”習慣がついてしまった人間にとって、意識が邪魔しない夢の中では、いろいろと”解放されている”気がする。もちろん、たまった記憶の整理など脳機能によるものが前提だが、それだけにとどまらない気がしている。(かといってフロイト先生のように全てを”性”に結び付けるのもどうかと思うが…)なので本書で描写される夢の数々が乙武氏自身の葛藤をリアルに表出しているようで興味深かった。

 意図的ではないにせよ、件のバッシングを通して、世間から貼られた”きれいな乙武さん”というレッテルは剥がれた。次は誰のどんなレッテルが剥がされるのだろう?言論活動を再始動した乙武氏の今後の活動に期待している。

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