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旧海軍司令部壕

 沖縄県豊見城市(とみぐすくし)にある旧海軍司令部壕(きゅうかいぐんしれいぶごう)に行ってきた。

kaigungou.ocvb.or.jp

 以下、旧海軍司令部壕ウェブサイトを参考にまとめた。

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海軍壕公園・展望台より

 太平洋戦争末期、沖縄戦の際に海軍の重要な軍事拠点である小禄(おろく)飛行場を守るために、この地に司令部壕が作られた。この場所が選ばれたのは、以下の理由からだったという。

  • 海軍の小禄飛行場に近い高台で、周辺を見渡すことのできる位置にある。
  • 戦闘に入った場合、肉眼でも敵・味方全体が掌握しやすい。
  • 通信に障害が無い。

 旧海軍司令部壕は、1944年8月に着工し、約5か月で完成した(異説あり)。日本海軍設営隊の兵士たちによって、もっぱら「つるはし」や「くわ」等で掘られ、当時の全長は450mであった※。この壕では、当時の最高機密を扱っていたため、壕掘りに住民は全く参加していない。構造は、カマボコ型に掘り抜いた横穴を、コンクリートと杭木で固めている。米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地として、約4,000人の兵士を収容していた。

※現在の壕の全長は約300mで、司令官室を中心に復元されている。

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カマボコ型に掘り抜いた横穴

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壕内見取図

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暗号室

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医療室と考えられるスペースに掲示された絵

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医療室と考えられるスペース

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発電機台

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発電室

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配電用硝子(がいし)

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下士官室に掲示された絵

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下士官

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下士官室に掲示された説明文

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幕僚室

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榴弾で自決した時の破片の跡

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司令官室

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司令官室に掲示された絵


【空気】
 壕内は、風通しが良くなかったため、普段は学校や大きな民家などで生活し、空襲の時だけ一時的に壕に逃げ込んでいた。しかし、アメリカ軍が上陸してからは、連日のように艦砲射撃・空襲があり、日常的に壕内で暮らすようになった。壕内は湿度が高く、大勢の兵士が入っていたため、息をするだけでも大変だった。戦闘が激化してからは、病人や死体も一緒に収容され、壕内の衛生環境は、かなりひどかったと推測される。

【食事】 壕内に、井戸や炊事場はなく、壕から200mぐらい離れた豊見城部落にある、大きな井戸で水汲みや炊事をしていた。しかし、戦闘が激しくなってからは、壕から出て再び帰って来なかった兵士もたくさんいた。ちなみに食料は壕内に豊富にあり、食べ物に困ることはなかった(住民から強奪した?)。

【トイレ】 壕内に、トイレはなく、兵士らは空襲や戦闘の合間を見て、壕の外で排泄をしていた。しかし、戦闘が激しくなってからは、やむを得ず壕内で排泄していた。

【遺骨】 昭和54年摩文仁平和祈念公園内に「国立沖縄戦没者墓苑」が建設された後、海軍壕の戦死者の遺骨も、そこに移された。現在はそこで沖縄戦の犠牲となった他の遺骨と一緒に合祀されている。

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スペースがなく、通路で眠る兵士たち

 米軍との戦いが激化し、敗北が濃厚となる中、1945年6月6日、海軍根拠地隊司令大田實少将(死後、中将に昇格)は、沖縄戦で困窮していた沖縄県民に特別の配慮を求める電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配賜ランコトヲ(一部抜粋)」を本土の参謀本部海軍次官に送った。その1週間後の1945年6月13日、大田少将は司令部壕で自決した(享年54歳)。

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沖縄県民斯ク戦ヘリ」全文(現代語訳)

 大田少将の”美談”についてはインターネットニュースでも知っていたが、初めて現場に立って、全文をじっくり読んだ。時間をかけて展示を回り、当時を忍んだせいか、大田少将の”切なる陳情”がグッと胸に入ってきた。死闘の果てに、疲弊した精神状態にあってヒューマニズムを失わなかった大田少将の行動に改めて敬服した。

 ところで、なぜ沖縄県民のために、大田少将がわざわざ「特別の配慮」を求める必要があったのだろうか?大田少将は、当時の島田知事から戦争によって県民がいかに苦しんでいるのかについて詳しく聞いていた上、自身も小禄半島をはじめ県内各地を視察していたので、県民の実情をよく知っていたそうだ。

 日本陸海軍部隊の沖縄進駐以来、住民と軍との間に少なからぬ軋轢があった。沖縄の住民は兵士や物資運搬員として勤労奉仕をさせられたり、物資の提供を強要させられたりしたが、戦況が悪くなるにつれ、食糧を浪費する邪魔な存在として、厄介者扱いされた。時には、陣地を死守するために、逃げ込んできた住民を追い払うようなこともあった。 軍内では、沖縄県民に対する悪評(敵への情報漏えいを行うスパイ疑惑など)もあり、大田少将は自決後のことを憂慮したのだろう。

(参考:東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程鳥飼行博研究室 沖縄地上戦:沖縄守備隊と米海兵隊

 

 1945年8月15日、戦後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾を、日本国民と大日本帝国軍人に向けて、天皇が「玉音放送」という形で語り掛けた。だが、沖縄の辺境までは届かなかった。終戦を知らない県民らによって、その後も1か月ほど戦いは続いたという。(最終的に、沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは1945年9月7日。)

 

 全ての展示を見終えて、海軍壕公園の展望台に上がった。

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海軍壕公園・展望台より

 悲惨な現実を直視したあと、美しい夕焼けにしばし癒された。間もなく、頭上をオスプレイが、けたたましい音をたてながら飛来した。戦争は、まだ終わっていないことを実感した。

 (以下、展示写真より。一部ショッキングな写真あり)

 

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米軍上陸ー鉄の暴風の中で

 

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 文脈は異なるのだが、メディアアーティスト・落合陽一氏の発言(ツイート)を読んで、同様の危機意識を強く感じた。

言葉が通じる人ほど黙ったままで,賛同の声も上げないし,ヘイトスピーチも非難しない.その空気全てが停滞を作り危機感を麻痺させる.最後はきっと賢人だけ黙って逃げる.