のんびり寄り道人生

何とかなるでしょ。のんびり生きましょう

山崎ナオコーラ『偽姉妹』

 山崎ナオコーラ著『偽姉妹』を読んだ。

http://www.chuko.co.jp/book/005090.jpg

偽姉妹|単行本|中央公論新社

(以下、アマゾン内容紹介より)
私、お姉さんたちとは別に、姉妹になりたい人ができたの――まったく新しい家族のつくり方を模索する、山崎ナオコーラのポップで自由な家族小説!

あるとき3億円の宝くじが当たった真面目で地味な正子(35歳)。
当せん金で『屋根だけの家』という風変わりな家を建て、イケメンの夫・茂と息子の3人で暮らしていたが、茂の浮気で離婚。
シングルマザーになった正子は、姉妹の衿子・園子と暮らすことに。ただ、姉妹同士の共同生活に息苦しさを感じはじめた彼女は、奇想天外なアイディアを思いつく。
結婚に“離婚”があるのなら、姉妹だって別れたり、新たに作ったりしていいのでは――? 
まったく新しい姉妹像から、現代の家族観を揺さぶる、山崎ナオコーラのポップで自由な家族小説。

 主人公・正子にとって、年上で元同僚の百夜(ももよ)と、ウクレレ教室で出会った年下のあぐりは、気が置けない友人であった。ある日、正子の新居に遊びに来た二人は、『屋根だけの家』という風変わりなコンセプトの家を気に入り、そのまま居つくようになった。初めこそ客人への気遣いを見せていたものの、正子の実姉妹である衿子と園子は、”非常識な客人”の存在を内心快く思っていなかった。そんな中、百夜の不倫が園子と正子の口論の種となり、百夜をかばう正子に反発した園子は家を出てしまった。薄々感じてはいたものの、実姉妹への気遣いから本音を言い出せずにいた正子は、姉らに抱いていた”異なる価値観(世間の常識、人との距離感、倫理観、金銭感覚、自分のポリシーなど)”に、二人の親友のおかげではっきり気づくようになった。そして実姉の衿子にも家を出てもらい、百夜とあぐりに向かって、叶姉妹阿佐ヶ谷姉妹のような、血縁のない姉妹になってもらいたい、と頭を垂れて告白した。(以下、同書より)

「一生、仲良く暮らそうね」正子がと言ったとき、

「一生とは、言わないでおこうか」百夜が少し軌道修正した。

「え? どうして?」あぐりが尋ねる。

「なんだか、『一生』って言葉を付けると、嘘っぽい科白に聞こえる」百夜が首を傾げた。

「そうか、そうかも」正子は頷いた。そうして、離婚のことを思った。この超高齢化社会では、結婚しても添い遂げるのが難しい。正子でなくても離婚をする人は多い。だが、「結婚は良いものだ」と正子は思っている。離婚は大変だったが、結婚して良かった。姉妹だって、別れはない方が良いに決まっている。でも、人生は長い。姉妹関係を解消せざるをえない日がいつかくるかもしれない。それでも、百夜とあぐりに、一瞬でも姉妹になれて良かった、と思ってもらいたい。それだけでいいかも、と考えた。

「じゃあ、まあ、できるだけ長く、姉妹として仲良くしていこう」あぐりが宣言した。

「おう」みんなで掛け声を出した。

 ”兄弟盃(きょうだいさかずき)”など今となっては古い言葉も残っており、昔から血縁を伴わない家族関係というのは取り立てて珍しいことではないと思うのだが、何でも明文化、儀式化したがる男社会とは違って、”女性同士が契りを交わす”場面というのは何だか新鮮だ。

 自分の身近な例(大人限定)を思い浮かべてみる。血縁がない兄弟・姉妹は確かに存在していた。ただ「兄さん」「姉さん」という年少者からの呼びかけには、多少の”媚び”や”へつらい”が含まれている気がして、親の周囲にいたベタベタした「偽兄弟」「偽姉妹」は全く好きになれなかった。

 だが、かくいう私にも大学時代に「偽姉妹」がいた時期がある。家賃を節約しようと、ゼミが一緒だった友人2人(入学年度が違い年齢差があった)と同居していたのだ。しばらく一緒に暮らしてみると、短時間の付き合いでは見えていなかった、赤裸々な姿に互いに驚いた。忘れっぽく家賃を滞納し易いなど、性格の細部が見えてきたというのもあるのだが、何より生活様式の違い(夜型・朝型、掃除をしない、風呂に入らない、裸で歩き回る、未遂で終わったものの歯ブラシや下着を共用しようとする、冷蔵庫のものを勝手に食べる、など)から衝突することが増えた。。。結果、かつてのような”ほのぼのとした”友人関係は瓦解し、互いの性格を熟知しているので”腹を読み合う”ような関係性になってしまった。。。私にとっては、そんな苦い思い出があるので、本書の登場人物たちのような、”理想的な”姉妹関係はとうてい築けそうもないのだが、著者にとって本書は現実味のある話であり、未来予想図として書いたもののようだ。(以下、著者のインタビュー記事より)

 「それぞれおばあちゃんになれば外見まで似てきたり、雰囲気が姉妹っぽいと言われる時代が来てもおかしくない気がする。なので、人種とか性別が違う姉妹まで存在する近未来を、先取りで書いてみました」という。(以上Newsポストセブンより)

 若い子たちの間ではシェアハウスなども流行っているようだし、超高齢社会の中にあって、おひとりさま同士など人々の連帯感は強まっていくのかもしれない。また経済の悪化状況によっては、一人暮らしのような”贅沢”など今後できなくなるのかもしれない。

 本書の主人公・正子のモノローグから、百夜とあぐりを”姉妹に選んだ”判断基準が垣間見られて興味深い。(以下、本書より)

「ねえ、このまま、今日はみんなで外食しようか?」正子は誘ってみた。

「え? 私、手ぶらで出てきちゃったから、お財布を取りに、いったん、戻らないと」百夜が答えたので、

「今日は私から話したいこともあるし、良かったら奢らせて」正子は申し出た。

「いいの? じゃあ、お言葉に甘えて」ちゃっかりとあぐりは笑った。

「そしたら、私もお言葉に甘えようかな」百夜もにっこりした。

恐縮したり、断ったりしないところが、この二人の良いところだな、と正子は思う。世間では、男同士だったら奢ったり奢られたりがよくあるのに、女同士だとあまりない。でも、この二人はそういう世間の風潮を気にしていない。

 『正しい人間になるように』という願いを込めて名付けられた正子は、地味な見かけによらず、”世間の常識”に対して多少の反発を秘めている。

百夜とあぐりは、家でも外でもいつだっておいしそうにものを食べる。経済的な負担を正子が多く負っているから、気を遣ってくれている部分もあるのかもしれないが、顔も仕草も嘘っぽくなく、奢ってもらうことを素直に喜んでいるように見える。正子は、この二人と一緒に食事をするのが、いつも楽しい。おそらく正子は、「奢りたがり」という性格なのだ。奢られる立場になると、相手に気を遣って萎縮してしまう。逆に奢る立場にいられると、リラックスできる。だから、衿子とはうまくいかなかった。「奢られたがり」の性格の百夜とあぐりだとぴったり合い、正子は愉快でたまらない。

 「奢りたがりか?」「奢られたがりか?」という分類で”相性”を診る、という発想がなかなか面白い。いわゆる磁石のN極とS極が引き合うような関係ということか。世間には、圧倒的に「奢られたがり」派が多そうだが、「奢られたがり」同士だと割り勘で友達のままでいればよい。皆が皆、”偽家族”になる必要性はないのだ。

 ちなみに主人公は”世間の常識”を象徴する実姉妹ともやがて和解し、まさにハッピーエンドで物語は終わる。本書を貫くテーマを通して家族の在り方に関する”世間の常識”が軽く揺さぶられた。ただ、エンディングに向けた最終章の展開は少々、無理矢理くっつけた感が漂っており、「偽姉妹」の関係がどれくらい長く続いたかは「読者の想像にお任せで良かったのでは?」と思ってしまった。

 これまで著者の本を何冊か読んだ。いずれも著者自身のこだわりが率直に平易な言葉で綴られており、時折顔を覗かせる著者の”理屈っぽさ”にも私は好感を覚えた。とりわけ初めての育児エッセイ書である『母ではなくて、親になる』は、子育て経験があまりなくても「なるほど。こういう表現だと分かりやすいなぁ〜」と納得できる描写に膝を打った。私にとっては村上春樹氏の作品もそうなのだが、本流である小説よりエッセイやドキュメンタリーという形で読みたい作家である。ちなみに『母ではなくて、親になる』の表紙・目次イラストを描いたヨシタケシンスケ氏のイラストも、とても可愛い。(以下、『母ではなくて、親になる』より)

web.kawade.co.jp

三十三歳になって、やっと、「町の本屋さん」で働く書店員と結婚した。優しく、可愛らしい夫だ。結婚してみたら、夫の生活能力が低く、夫の世話を焼くシーンが増えていき、それが意外と楽しかった。「自分は世話好きかもしれない」と思った。夫に金を遣ったり、夫に服や食事を用意したりといったことに、喜びを感じた。子どもの世話も、きっとできる、と思った。
ただ、私は子どもを産みたかったが、子どもと仲良くなることは下手だ。親戚の子どもと会うとき、どう喋りかけたら良いのかわからない。子どものいる場に行くと、まごついてしまう。私は大人とだって、つき合うのが苦手なのだ。友人と会うとき、リーダーシップを取ったり、気遣いをしたりはまずしない。どちらかというと、みんなから自分を気遣ってもらいながら生きてきた。甘えていて、責任感に乏しい。だから、私の母や妹や友人たちは、私を世話好きだとは見ておらず、子どもをちゃんと育てられるのか、と不安に思っているようだ。「どんな風に子どもと接しているの?」とよく聞かれる。
けれども、 私が世話好きというのは、自分としては、たぶん、本当にそうだろうという感じが今もしている。他の人から見てとれるような「子ども好き」「世話好き」という雰囲気は私にはないかもしれないが、私みたいに内向的な世話好きもいるのだ。

今、私の前には二ヵ月の赤ん坊がいる。
赤ん坊のうんちを拭き取ったり、耳掃除や鼻掃除、爪切りをしたりしていると、ふつふつと喜びが湧いてくる。今のところ、おむつ替えや授乳を面倒に思ったことは一度もない。赤ん坊のために金を払うのもわくわくする。なんでもやってやろうと思う。