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三浦英之著『五色の虹』

 朝日新聞記者・三浦英之著『五色の虹(ごしきのにじ) 満州建国大学卒業生たちの戦後』を読んだ。

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五色の虹/満州建国大学卒業生たちの戦後| 三浦 英之| 随筆/ノンフィクション/他|BOOKNAVI|集英社

内容紹介(上記サイトより引用)

日中戦争の最中、旧満州(現・中国東北部)に存在した最高学府「満州建国大学」。「五族協和」の実践をめざし若者たちが夢見たものとは。彼らが生き抜いた戦後とは。第13回開高健ノンフィクション賞受賞作。

  「建国大学」とは、日中戦争の最中、1938年に関東軍と傀儡国家である満州国政府によって「満州国」(現・中国東北部)の首都・新京市(現・長春市)に、将来の「満州国」を指導する人材を育成するべく設立された「国策大学」である。学費、宿舎生活費、服装費等、全額が官費で賄われるほか、1円が現在の1万円の価値に等しかった当時、月5円の「手当」が学生たちに支給されたという。開学当時は日本領および満州国内から二万人以上の志願者が集まり、選抜された「スーパーエリート」として入学できた第一期生たちは全部で150人(内訳:日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、モンゴル人7人、ロシア人5人、台湾人3人)。修学期間は前期3年・後期3年の計6年。「学問」「勤労実習」「軍事訓練」を教育の柱としていた。だが、1945年8月、満州国の崩壊とともに開学わずか8年で歴史の深い闇に姿を消してしまったという。(以降、全て同書より引用)

異民族の学生たちは「塾」と呼ばれる二十数人単位の寮に振り分けられ、授業はもちろん食事も、睡眠も、運動も、生活のすべてを異民族と共に実施するよう求められていたのだ。塾内では一人一畳のスペースが与えられ、就寝時には枕木のように十数人が一列になって眠るよう定められていた。その順番においても同じ民族がなるべく隣同士にならぬよう、異民族を交互に配して眠らせるほどの徹底ぶりだった。

 そこまでして、彼らが目指そうとしていたものは何だったのかー。

 答えはもちろん、満州国が当時国是として掲げていた「五族協和」の実践である。

 満州国には当時、漢民族満州族朝鮮族モンゴル族などの民族がモザイクのように入り交じって暮らしていた。日本政府は満州国建国の早い時期から、総人口のわずか二%にすぎない日本人が圧倒的多数の異民族を支配することは極めて困難だと判断し、結果、国の実権は事実上すべて握りながらも、「五つの民族が共に手を取り合いながら、新しい国を作り上げよう」という「五族協和」のスローガンを意図的かつ戦略的に国内外へと掲げたのである。満州国の最高学府として設立された建国大学は、そのスローガンを実践するための「実験場」であり、その成果を国際社会へと発信するための「広告塔」でもあった。

 そしてそれは皮肉なことに、日本が独自に創設した初の「国際大学」でもあった。

 国際化をうたいながらも実質的には在校生の大多数を日本人が独占していた各地の帝国大学とは一線を画し、建国大学では日本人学生は定員の半分に制限され、残りの半数は中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族の学生たちにきちんと割り当てられていた。カリキュラムも語学が授業の三分の一を占めており、学生たちは公用語である日本語や中国語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などの言語を自由に選択することが許されていた。

 そして驚くべきことに、建国大学の学生たちには当時、戦前戦中の風潮からはちょっと想像もつかないような、ある特権が付与されていた。

 言論の自由である。

 五族協和を実践するためには、異なる生活習慣や歴史認識の違いだけでなく、互いの内面下にある感情さえをも正しく理解する必要があるとして、建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由をーーつまり日本政府を公然と批判する自由をーー認めていたのである。

 その特権は彼らのなかに独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論のなかで、日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生へと向けられたのだ。

 同世代の若者同士が一定期間、対等な立場で生活を送れば、民族の間に優劣の差などないことは誰もが簡単に見抜けてしまう。彼らは、日本は優越民族の国であるという選民思想に踊らされていた当時の大多数の日本人のなかで、政府が掲げる理想がいかに矛盾に満ちたものであるのかを身をもって知り抜いていた、極めて稀有な日本人でもあった。

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※いずれの写真も著者・三浦英之 (@miura_hideyuki)氏のtweetより

 本書を彩る「建国大学生」たちの写真は、戦時中とは思えないような自然な笑顔と仲睦まじさが印象的だ。彼らの「友情」を支えていたのが、この「言論の自由」であったことは、ほぼ間違いないだろう。就学中だけでなく、生活面でもいろいろと制約があったからこそ、”娯楽”としての議論はますます盛り上がったのではないだろうか?もちろん波乱の時代にあって、それぞれの「国家のため」それぞれの「民族のため」という当時の”常識”を、学生たちは少なからず背負っていただろう。だが、特別に整備された環境で、これまで自分の身近にはいなかった選りすぐりの仲間(ライバル)たちに出会えた喜び、かきたてられる競争心によって、国境を超えた議論はますます白熱し、友情や信頼を深めていったのだろうと推測する。恐らく、日本における当時の帝大を目指すような内向きで安定志向のエリートとは異なるタイプの、ちょっと変わり種のエリートが、高き理想を掲げ、あるいは経済的な事情からやむにやまれず海を渡り荒野に新設された大学に集ったのではないだろうか?しかし戦況が変わるにつれ、本書に登場するバイタリティあふれる建国大学生たちの笑顔も、威勢の良さも時代の荒波に飲み込まれて行く。

かつて藤森(引用者注:著者が初めて取材した建国大学出身者)がそうだったように、ほとんどの日本人学生が学徒出陣によって軍隊に取られ、戦後はシベリアなどでの過酷な抑留生活を経験していた。その一方で、私が取材をした限りでは、抑留中に死亡した建国大学の出身者は存在していないようだった。極寒の地に抑留された約六〇万人の日本兵のうち、約一〇分の一にあたる約六万人が栄養失調や極度の過労で死亡したとされるソ連の違法行為において、それらは極めて珍しいことらしかった。

 復員後の進路については人それぞれだったが、多くの卒業生たちが戦後、満州国が設立した最高学府の出身者という「侵略者」としてのイメージと、終戦後に捕虜として赤化教育を受けた「共産主義者」というレッテルに苛まれ、満足な職に就くことができないでいた。なかには最終学歴から建国大学を消すために日本の別の大学に入り直したり、当時は比較的自由な雰囲気のあった新聞社に入社したりした卒業生もいたが、もちろん、数としては多数ではなく、ほとんどの卒業生たちが優秀な頭脳や語学力を十分に活かし切ることができずに、不遇の日々をやりすごしていた。 

  本書は、中国など一部の政権下において現在も厳しい言論統制下にあると思われる建国大学卒業生を慮って、本人や家族に迫害が及ばないよう、仮名が使用され、事実関係がぼかされたり変更されたりしているため、著者の三浦氏は「ノンフィクション」と呼べるかどうか執筆時点では自信がなかったそうで、一度は作品化を諦めたそうだ。だが、建国大学卒業生で構成される同窓会の皆さんの助力により、まずは新聞記事として世に送り出されることになったらしい。限られた地域の夕刊紙面での掲載だったにもかかわらず、多くの読者から反響が寄せられ、また著名な「開高健ノンフィクション賞」を受賞したことから本書の書籍化が決まったのだという。

 旧満州を舞台にした伝説の漫画『虹色のトロツキー』の作者・安彦良和さんは本書を読んで、こう評した。(以降、太字や下線は引用者)

 もし三浦さんの取材が、敗戦の記憶がまだ強烈に残っている一九五〇年代、六〇年代の冷戦期に行われたものであったなら、見えなかった部分、聞けなかった部分もあったはずです。今だからこそ聞けることもあります。

 建大OBが高齢になっているこの時期に、これほどの取材ができたことは素直にすごい。これが時代を生きるプロの記者の能力、プロの仕事なのだと思います。

 集英社『kotoba』2016年冬号、「『五色の虹』、わたしはこう読む!」より引用

第1回 安彦良和さん(漫画家)

  一方、著者の三浦氏は本書に関するインタビューにおいて「実際に建国大学やそこで学んだ方たちが送った人生を追ってみて、いかがでしたか?」と聞かれ、次のように答えている。

 これまで僕らが知らなかった歴史や価値観、世界観が見えたんじゃないかと思います。戦後七十年ということで、関係者の方の記憶の面でも年齢の点でも限界でしたし、ギリギリのラインで間に合ったというのが正直な実感です。彼らはこれまでずっと話せなかったんです。言いたくても言える状況になかったし、恐らく何を言ってもわかってもらえない、と彼らは思っていた。そこに僕みたいな青二才が突然訪ねてきて、「話聞かせてください」と。あるいは、矛盾するようですが、一番いいタイミングだったのかもしれません。最後の最後で、彼らは思いを託してくれました。

 でも個人的にはもうちょっと早く会いに行きたかったですね。戦後六十年で行きたかった。そうすればもっと倍ぐらいの人に会えただろうし、もっと明確な記憶の中でいくつものエピソードを聞けたと思うんです。

インタビュー 三浦英之『五色の虹ー満州建国大学卒業生たちの戦後』 歴史の闇に消えた幻の大学で若者が摑もうとしたもの、その先にあった現実。

  お気づきだろうか?「もし取材がもっと前の時代に行われていたら」という仮定について安彦氏と三浦氏は、やや異なる予測を提示している。「1960年代までなら見えなかった部分、聞けなかった部分もあったはず。結果的に取材はベストタイミングだった」と三浦氏の仕事を賞賛する安彦氏に対して、「何とかギリギリ間に合ったし、一番いいタイミングだったのかもしれない。だけど、もう10年早く取材できていれば、もっといろんなエピソードを聞けたのに…(残念)」という三浦氏。各々、「ベストタイミングだった」という点で一致しているものの、記者と読者の視点では、こうも認識が違うのかと驚く。あるいは1947年生まれの安彦氏と1974年生まれの三浦氏の年齢差による違いなのかもしれない。いずれにせよ結果論に”正解”はない。各人の歴史観が反映されていて面白いなぁと思った。

 本書は波乱の時代を生き抜いた個人の人生記録としても一読の価値がある。ただ、それ以上に、取材の過程において著者がぶつかった”壁”との攻防は、あの時の”戦争”がまだ完全には終わっていないことを改めて思い出させてくれた。中国・長春市で取材することになっていた建国大学出身者とのインタビューが直前で教育庁によって中止させられた場面だ。無念極まりない著者の考察が続く。

 中国政府はある意味で一貫していた。

<<不都合な事実は絶対に記録させないーー>>

 戦争や内戦を幾度も繰り返してきた中国政府はたぶん、「記録したものだけが記憶される」という言葉の真意をほかのどの国の政府よりも知り抜いている。記録されなければ記憶されない、その一方で、一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができるーー。

 戦後、多くの建国大学の日本人学生たちが「思想改造所」に入れられ、戦争中に犯した罪や建国大学の偽善性などを書面で残すように強要されたことも、国内の至る所でジャーナリストたちに取材制限を設け、手紙のやりとりでさえ満足に行えない現在の状況も、この国では同じ「水脈」から発せられているように私には思われた。

 そして、その「水脈」がどこから発せられているものであるのかを、そのときの私は建国大学の取材を通じて経験的に知り得てもいた。

 建国大学の卒業生たちの取材を通じて私が確信したことが一つある。それは「小さな穴でも、大きくて厚い壁を壊すのには十分だった」という事実だった。

 「小さな穴」とはもちろん「言論の自由」という概念を意味した。建国大学が学生に認めた「言論の自由」は、やがて中国人や朝鮮人の学生たちに物事を知ろうという勇気と現状を判断させる力を培わせ、反満抗日運動や朝鮮独立運動へとつながる確固たる足場となっていった。

 公文書の改ざんや廃棄が連日、ニュースになっている現代の日本において、都合の悪い”歴史”を消そうとしている輩と、そうはさせまいと踏ん張っている人たちとの”攻防”が繰り広げられている。他国がどうであれ自国の「言論の自由」のベースとなるファクトの記録をないがしろにしてはいけない。

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集英社学芸部 - 学芸・ノンフィクション