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ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』

  ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』(2016年、日本)を観た。

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ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』公式サイト

内容(以下、公式サイトの作品解説より一部引用)

 愛知県春日井市高蔵寺ニュータウンの一隅。雑木林に囲まれた一軒の平屋。それは建築家の津端修一さんが、師であるアントニン・レーモンドの自邸に倣って建てた家。四季折々、キッチンガーデンを彩る70種の野菜と50種の果実が、妻・英子さんの手で美味しいごちそうに変わります。刺繍や編み物から機織りまで、何でもこなす英子さん。ふたりは、たがいの名を「さん付け」で呼び合います。長年連れ添った夫婦の暮らしは、細やかな気遣いと工夫に満ちていました。そう、「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない」とは、モダニズムの巨匠ル・コルビュジエの言葉です。

 かつて日本住宅公団のエースだった修一さんは、阿佐ヶ谷住宅多摩平団地などの都市計画に携わってきました。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画。けれど、経済優先の時代はそれを許さず、完成したのは理想とはほど遠い無機質な大規模団地。修一さんは、それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけたニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめましたーー。あれから50年、ふたりはコツコツ、ゆっくりと時をためてきました。そして、90歳になった修一さんに新たな仕事の依頼がやってきます。

 本作の主役である津端(つばた)夫妻が暮らす、華美さとは無縁の別荘のような平屋が、木材を生かしたインテリアを含めて、かなり自分好みで気に入った。丁寧に土壌から手入れされた緑豊かな庭。そこで採れた季節の恵みを、ふんだんに使った手料理。老夫婦の何気ない会話は温厚な語り口で微笑ましい。互いに「さん付け」で呼び合い、”いい距離”を保ちながらも愛情が色褪せない。豊かに老いる見本のような笑顔の素敵な二人に、すっかり魅了された。

 まぁ、意地悪く考えれば、いくら”日常”を撮っているとは言ってもカメラの前だし、あるいはドキュメンタリー制作側の編集によって、”脚色”も多少入っているだろう。そんな冷めた考えもどこへやら、映画鑑賞中、不覚にも何度か涙がこぼれ落ちた。夫婦のあり方、自然との共生、自給自足を基本とする丁寧な暮らし、超高齢社会の向かう先など、本作は多方面で人々の共感と関心を喚起する作品であり、文化庁映画賞など様々な賞を受賞したのも頷ける。もとは東海テレビ制作のドキュメンタリーが大反響を呼んで、映画化されたそうだ。また二人の共著・単著も数々、出版されている。二人の生き方に賛同する人たちは今もかなり多くいるのだろう。

 印象的だったのは、手の込んだ料理を前に甲斐甲斐しく動き回る妻の英子(ひでこ)さんに対して、家では何でも妻任せ!?な感じの修一さんだ。修一さんは金属製のものが嫌いらしく、テーブルに置かれた金属製のスプーンを木製のスプーンに交換してほしいと英子さんに言いつけた。英子さんは嫌な顔ひとつせず、「ハイハイ、今持って行きますね」と従っていた。この年代の方々にとって、こういった男女の役割分担は当たり前なのだろう。だが、この時ばかりは権利主張をするフェミニスト目線になって過剰反応してしまう。それには思い当たるフシがある。昔、新入社員で入った会社で女性だけがお茶汲みと電話番をするという、理不尽な暗黙の!?ルールがあり、それが嫌でたまらなかった。それで、つい反射的に『修一さん、それくらいは自分でやろうよ』と心の中で突っ込んでしまった。だが、後に出て来るエピソードによって修一さんが全く何もしない家父長的な古いタイプの人ではないことが分かり、自らの短絡的な考えを恥じた。。。

 そのエピソードとは障子紙を交換している英子さんの一人語りによって明らかにされた。室内の採光を可能とする障子窓は天窓のように高い位置にある。その障子紙が破れたので、内装業者に修繕を依頼しようとする英子さんに対して、修一さんは「時間がかかったとしても、まずは何でも自分でやってみなさい」とたしなめた。そして障子窓を自ら降ろし、障子紙を外した後、新しい障子紙の貼り付け作業を英子さんに委ねたのだ。元々、実家が造り酒屋だった英子さんがまめまめしく働くのは当然なのだろうと思われたが、修一さんの影響も多大にあったようだ。結婚当初は(家長を立てるため)遠慮がちに英子さんが「○○やってみようかしら」と修一さんに相談すると、「いいね。ぜひやってみなさい」と、修一さんは英子さんが思うように自由にやらせてくれたという。修一さんは女だからと人を差別するような古い考えの人ではなかったのだ。そんな自由人らしい思想がよく現れているエピソードは、もう一つある。

 戦時中、修一さんは植民地化していた台湾において軍の技術士官として軍用機の開発設計に携わっていた。立派な宿舎などエリート限定の”特別待遇”に対する後ろめたさから、日本人でただ一人、台湾人の徴用工(少年)たちと同じ建物に住まい、国境を超えて彼らと親交を深めたという。戦後、かなりの時を経て、二人の共著が台湾で出版されることを記念し再び台湾を訪れた際は、政治犯として処刑されてしまった台湾人の友人の墓の前で、彼からプレゼントされ日常的に使っていた手彫りの印鑑を土に埋めた。過去に共に唄った軍歌を嗚咽しながら唄い、大切な友人の無念の死を弔っていた。

 修一さんは戦後、東京大学工学部を卒業し、いくつかの建築設計事務所を経て、発足したばかりの日本住宅公団のエースとして各地でニュータウン設計を任された(津端修一 - Wikipedia)。だが、1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを修一さんは計画したものの、経済が何より優先される時代の真っ只中である。大規模団地の画一的な価値観の中、建築家としての”理想”を全うできず広島大学教授として転職を図ったようだ。柔軟な思考と素早い行動力で方向転換し、やがて個人の所有地で”理想”を実現するべく温めていた活動を開始した。具体的には高蔵寺ニュータウンの一隅に購入した土地に雑木林を備えた自邸を建て、いわばモデル住宅としたのだ。個々の住宅において自然との共生群が増えれば、修一さんの”理想”は結果的に叶うことになる。また修一さんの思想に共感した賛同者と共に植林活動を通じて禿山となった高森山も復活させたそうだ。

 立派な建築家は、ただ建物だけを考えて建てるのではない。ちゃんと風土の特性を踏まえた上で、未来の人々の暮らしにも配慮するセンスが必要だ。修一さんという異色のエリートが自身の仕事に込めた熱い想いは、今後も広がりを持って人々に受け入れられていくと思う。晩年、修一さんが無償で草案の設計を手がけた佐賀県伊万里市にある医療法人「山のサナーレクリニック」は、当時施設の設計を終えた段階であったにも関わらず、修一さんとの交流を機に”軌道修正”したそうだ。

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 緑豊かな環境の中ゆったりした空間で住まうことの素晴らしさは、中古ながら自ら手に入れた戸建てに住んでみて日々実感している。若い頃はヤドカリのような借家住まいでも、あちこち旅行できると思えば愉しかったものだが、やはり年齢を経ると身体が”落ち着き”を好むようになった。ようやく我が家の修繕が一段落したので、次は実家に取り掛かろうと思う。住む人の未来を考えながら、住む人の希望を取り入れる。修繕作業は業者に依頼するが、依頼者として何をどうすべきか建築家の視点で決める必要がある。自分の家なら予算の範囲で合理的にサクサクやれば済むのだが、合理的でないところで頑固で、時に気が変わり安く、本音を語っているようで本音ではない、なかなか一筋縄ではいかない我が老親。その希望の核心を見つけるべく、いろいろ問題点を整理することから始めようと思う。