のんびり寄り道人生

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他人の始まり因果の終わり

 ミュージシャン、作家・ECD著『他人の始まり因果の終わり』を読んだ。

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 彼は、日本語ラップ黎明期の1987 年にラッパーとして音楽活動を開始し、1996 年には日本ヒップホップ史に残る記念碑的イベントである「さんピンCAMP」を主催したことで有名らしい。ただ、現在は上行結腸と食道の進行癌(末期)を患っており闘病生活を余儀なくされている。余命を見据えたタイトルの意味は本書の最後で明かされるが、家族の生活を支えるため無理して執筆活動を続けているのだろう。本書は闘病記であり、自叙伝であり、エッセイである。極めてプライベートな内容をふんだんに披露しながら、既成概念に囚われた夫婦観、家族観、人生観について世に問いかける。twitter.com

 ECD氏のことは妻の写真家・植本一子氏の単行本『働けECD わたしの育児混沌記』に出て来る”石田さん”として以前から知っていた。同書では、妻(当時27歳)目線で夫(当時51歳)と娘二人(当時2歳と0歳)との家庭生活が、収入を含めた家計簿と共に赤裸々に語られていた。日記風に書かれたそのエッセイは、元が(家計簿代わりの?)ブログであったせいか「いつ何をいくらで買った」「誰がどこで何をしていくら使った」など、ずいぶん細々と家計が”オープン”にされていた。プライベートな領域を何でもかんでもさらけ出す著者の”意図”は測りかねたが、文章は親しみやすく共感する考えなどもあったので、「何かこだわりの”信条”があってのことかもしれない」と思ったことを覚えている。ちなみにそこに登場する”石田さん”は(ミュージシャンだから当然なのだが)お金さえあれば古いレコードを買い漁って妻から顰蹙を買っている”夢追い人”そのものであった。

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  ECD氏に話を戻そう。 著者は、家事や子育てをこなしながら仕事、ライブ活動、執筆活動を続けていたが、母の急死や弟の自死、自身の発病など不幸が立て続けに起こる。不幸中の幸いなのか、離婚寸前だった妻との関係性は、それらを契機に何とか持ち直したようだ。(穿った読み方かもしれないが、本書のメッセージは何より妻に向けて書かれている気がする)。そして余命を意識してのことだろう、執筆当初の身辺雑記に留まらない大きなテーマに挑んでいく。戦後を生き抜いた親世代が築いた夫婦や家族の在り方を可能な範囲で検証しながら、自分たち夫婦や家族の在り方を真摯に模索した着地点が披露されている。(以下、『他人の始まり因果の終わり』より引用)

 妻は自分にとって、ブライアン・フェリーが結婚相手に選んだ地味な一般女性のような存在だった。今は違うが、つきあい始めた頃はまだそんな風に思っていた。子供を持ち家庭を守るなんてつまらない生き方だとその頃の自分はまだ思っていた。しかし、実際に子供ができて家庭を守る立場になってみたら、それが想像していたような平穏な生活ではないことを思い知ることになる。(略)

 父の人生を見ればわかる。育ち盛りに飢えを体験した父は、ただ食えなくなることへの不安だけをバネに働いた。それでも平穏を手に入れることはできなかった。(略)

 

 僕にはたとえつきあっている同士でも、また結婚した妻と夫という関係であっても、相手を束縛したくないという強い気持ちがある。それは世間が押しつける、つきあっている同士ならかくあるべし、夫婦ならかくあるべし、という束縛に左右されたくないという僕の思想でもある。

 今回、妻が発表したエッセイに対して、ネット上で物凄い嫌悪感を表明する者がいた。誰が擁護しても自分だけは全否定するとまで言うのである。このひとはどうしてそこまでのことを言うのか。想像するに、このひとには僕などには想像もつかないほどの夫婦かくあるべし、家族かくあるべしという強固な夫婦観、家族観があるのだろう。このひとにとって妻はそんな夫婦観、家族観を破壊する者としか映らないのだろう。そうした強固な夫婦観、家族観を破壊してやりたいという気持ちは僕も確実に持っている。それは夫婦である前に、家族である前に、ひとは「個」であるという思想である。そんな思想が世間からバッシングされる対象になることはよくわかっている。しかし、だからこそ僕は抗いたい。妻が外に好きなひとがいてもかまわない理由もそこにある。同じものと戦っているという意味で僕と妻は同志だと思っている。

 ところで僕の父の夫婦観、家族観というのはどんなものなのか。これが実につかみどころのないあやふやなものなのである。無理もない。夫婦かくあるべし、家族かくあるべし、そんなことを考える余裕すらなく父はただひたすら働いてきた。(略)

  「実は、あの時こうでした、こう思っていました」というような”都合の良い事実”を後から並べ連ねるのではなく、今、現在進行形の話として、同志である二人は生き様を晒している。あまりの”露出度”に最初は少々面食らったが、彼らはアーティストであり、本物の自由人である。私にはとうてい真似できそうにないが、憧れる面もある。「こういう在り方もありだな」と彼らのような思想が普通に許容される社会であれば、皆もう少し生きやすいのになぁ…。

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