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ドラッカーと論語

 安冨歩(東大教授)著・「ドラッカー論語」を読んだ。

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 いきなりだが、私が20代の頃に遡る。会社員時代は管理職でもないのに、ピーター・ドラッカーの本をよく読んだものだ。巷では、おじさんたちの間でかなりドラッカー本が流行していたので、書店などで目につきやすかったのだろう。いざ読んでみると単なるビジネス書ではない。まるで人生訓だった。当時、相当なブラック企業(終電で帰れずビジネスホテルに泊まっていた)にいたので、いろいろ「この会社にこのまま勤めていていいのだろうか?」と、モヤモヤしていた時期だった。世間を賑わしているドラッカーの思想を通じて”理想的な働き方”(具体的には「会社において自分はどうふるまうべきか」「上司や同僚とどう付き合うべきか」など)を知りたかった。もし”お金儲け”以外に”働く意味”があるのであれば、純粋にそれを知りたかった。経済、人材育成などドラッカーの本に頻出する専門用語は難しく、読み慣れない翻訳の違和感などもあって、ページを繰るスピードはノロノロしていたが、はずみで手にした1冊ではもの足らず、その後も何冊か夢中になって読んだ。若いなりにドラッカーの”偉大さ”は感じたつもりだ(あいにく欲しかった”特効薬”は得られなかったが…)。その後も明治時代の実業家である渋沢栄一著「論語と算盤」などに触れていたので、個人的には「ドラッカー論語」という組み合わせに、さほど意外性は感じなかった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%AA%E7%94%B0%E9%A0%86%E7%94%9F

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 本書を執筆した動機について安冨教授は率直に、こう記している。(以降、特に引用元の記載がなければ「ドラッカー論語」より引用)

 ドラッカーの『マネジメント』を経営者や管理職のためのハウツー本の類だと誤解している方も多いが、彼が同書で訴えたかったことは、そのようなものではない。(略)

 だが、あの分厚い『マネジメント』を、できれば英語で、イチから読む、というのは私のような者にとっても簡単なことではない。ましては、忙しいビジネスマンの方たちに要求するのは、現実的ではない。どうにかしてもっと手軽にドラッカーの本質に触れることはできないものか。『もしドラ』が青春小説の体裁で、ドラッカーの認知を広めたようにー。

 いろいろと考えを巡らせて、私は一つの方法に思い当たった。それが最初に述べた、『論語』を導きとしてドラッカーを見る、という方法である。これは単なる叙述の方法ではなく、私自身のドラッカー研究の方法でもある。(略)

 難解な『マネジメント』を読み解くため、『論語』をサブテキストとして用いる。一見すると奇をてらったような手法に見えるが、実はドラッカーを理解する「近道」だと私は考えている。

 東西の二人の知の巨人が後世に生きる我々に何を伝えたかったのか。それを以下の章で読者とともに探求していこうと思う。(略) 

 そしてドラッカーの代表作「マネジメント」と「論語」から交互に引用しながら、両者に通じる”共通項”が、明快な論理展開によって紡ぎ出されていく。

 安冨教授は「論語」を読む前提として、念を押す。

古典というものに、絶対的に正しい解釈などというものはそもそもありえない。その価値は、読む者が、自らの問題を考え、乗り越えるための手がかりを与える、ということにある。
 とはいえ、それは勝手に読めば良い、ということではない。それでは自分の思い込みを正当化する手段にしかならず、新しい発見の手がかりとして機能しないからである。できる限り古典の本来の姿に肉薄する、という姿勢がなければ、自分の思い込みを乗り越える手がかりとはならない。

 そこで『論語』の冒頭として有名な「学而第一」の第一章を取り上げ、”伝統的な解釈”に対する、もっともな”違和感”を指摘する。

子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

代表的な現代語訳(口語訳):マナペディアより引用

孔子はおっしゃいました。習ったことを機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことでしょうか。他人が自分を認めてくれないからといって不平不満を言うことはありません。なんと徳のある人ではないでしょうか。

そして安冨教授による新たな解釈は、こうだ。

 先生が言われた。何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。(『生きるための論語』より)

 (略)

「学び」だけでは、取り込んだ情報に振り回されるだけだ。その情報がいつしか、しっかりと身について生きた知識となるなら、これが「習う」だ。「学び」を完全に自分の一部にする。「復習をする喜び」などより、遥かに人間にとって普遍的な喜びではないだろうか。

 かつて取り入れた古い「学んだこと」が鍛錬の末、新しい自分を育む。それを、親しい友人が遠くから思いがけなくたずねてくる喜びにたとえられているのではないか。つまり、古きをたずね、新しきを知る。「温故知新」である。

 ただ、世の中には当然このような「学び」と「習い」に喜びを見出さない人もいる。頭に情報を詰め込んで、手に利権をつかんでいる人々は、そういった変化を極度に恐れるようになる。それを「わかっていない連中だ」と切り捨ててしまっては、永遠にそのような人たちと共に、学習の喜びを分かち合うことはできない。逆にそのような人たちを見ても心穏やかに接することができる人は、彼らの心の蓋を打ち破って、心を開きあうことができる。それこそが「君子」である、と孔子は言っている。 

 なるほど、確かに、こちらの方がすっきりと共感できる。ちなみに、安冨教授は「君子」を以下のように定義し直し、ドラッカーが用いた語彙と置き換えてみても意味が通じるという。

 「君子」というのはご存じのように、人格的にも道徳的にも優れた人物のことである。しかし単に優れた人というだけではなく、『論語』の背後にある「政」をいかに実現するか、という問題意識においてとらえるなら、それは組織を率いる良きリーダーという意味が込められている、と私は考える。いわば「良きマネージャー」である。

 さらに古代中国(紀元前500年前後)の思想家・孔子と、20世紀の経営学者・ドラッカーの共通点として時代背景を挙げる。私の理解で、ざっくり要約すると、

 すでに述べたように、当時の中国では顔の見える範囲の王国から、天下を統一する大帝国へという根本的な社会変革が起きていた。それを引き起こしたのはおそらく、文書である。統治に文書が用いられるようになって、顔も見たことのない人間を支配することが可能になったのだ。

 文字の利用によってコミュニケーションのあり方が根本的に変わり、その結果、根本的な社会変革が起きた。孔子は、コンピューターの利用によって変革を経験している我々と、同じような出来事を経験していたのである。(略)

 秦帝国が崩壊して成立した漢帝国で採用されたのは、法家ではなく儒家であった。儒家は法家とどう違うのだろうか。そのポイントは、サーバー/クライアント型の秩序形成の不可能性を主張し、P2P型のネットワーク的秩序形成を主張した点にある。彼らが「礼」という自生的な秩序形成準則を重視したのも、それが誰かによって決められて強制されるものではなく、人々が相互関係のなかで自ら生み出したオープン・ソースの如きものだからである。それはフリーウェアのようなもの、あるいはBitcoinの公開の取引記録のようなものである。

 「君子」という概念を見て欲しい。君子は君主ではない。『論語』は、君主のあり方を説いた帝王学ではないのである。君子には誰でもなれる。君子になろうと本当に思うかどうかがすべてである。

 孔子は、帝王や君主に秩序形成の主軸を見ていない。そうではなくて、君子が秩序を生み出す、と考えている。君子は「政」を行う。しかしその政は、国家の政治のことではない。自分自身の身の回りのコミュニケーションの統御のことである。

 (引用者注:原文略)

 ある人が孔子に言った。「あなたはどうして、政治をなさらないのですか」と。子曰く。「書経に『孝にして、ひたすら孝。兄弟と仲よくする。これができれば政である。』とあります。これはつまり、政治をする、ということです。どうしてわざわざ改めて政治を為す必要があるでしょうか。」

 これは、孔子が国家の政治に携わっていないことについて、誰かが言った皮肉に答えたものだと考えられる。普通に読めば、無理な負け惜しみを言っているようにしか見えない。

 しかし、孔子が言っていることは、負け惜しみではない。彼の考えでは、自分自身の周囲のコミュニケーションをマネジメントすることが「政」であり、自分がたまたま宮廷にいるなら、宮廷の自分の周りのコミュニケーションのマネジメントをするし、そうでなければ、普通の世間で自分の周りのコミュニケーションのマネジメントをするだけのことである。それが彼の言う「政」である。

 孔子が主張したことは、社会の様々の場所に君子が出現し、自分の身の回りに秩序を形成することが、社会を秩序化する唯一の道だ、ということである。これはつまり、個々の主体が、社会に参画するなかで、秩序化された社会のサービスを受け取るばかりではなく、自分自身が社会を秩序化するサービスの提供者たるべきだ、という主張である。(略)

 では、何をすれば社会は秩序化されるのだろうか。それは本書をここまで読まれた読者であれば、もうおわかりであろう。学習回路を開くこと、これである。それが「仁」である。

 そして孔子は、社会が汚れているからといって、そこから身を引いて隠者になることを強く戒めている。そうやってネットワークから自らを切り離し、スタンドアロンになって順調にやっていても、意味はない、というのである。

 現代社会は隠者だらけになっている。いわゆる「オタク」「引きこもり」の方々である。彼らは汚れた社会に耐えきれず、すべての関係性をできる限り断ち切ってしまい、二次元空間に逃げ込んでしまった隠者である。

 孔子は、そういう隠者になることを拒絶する。そして、自分自身に向き合い、自分自身のコミュニケーションを統御する。遠くから友だちがたずねてくれることを楽しみにしつつ。自分自身を場として開き、仁を志す人々と、命がけでつながっていく。それが社会を秩序化するP2P型の倫理である。二一世紀を生き抜くためには、そうやっていくしかない。
 それがドラッカーの教えであり、孔子の教えである。

  随分、引用が多くなってしまった。(もし出版社、安冨教授よりご指摘があれば削除する予定だ。)本書の<謝辞>によると、ノンフィクションライターの窪田順生氏との共同作業によって本書は生まれたそうだ。(安冨教授がアウトラインを話し、窪田氏が文章を書き、最後に安冨教授が大幅に手を加えたという。)またドラッカーの引用文で原著とのチェックは出版社の担当編集者である宮崎奈津子氏がサポートされたという。(ちなみに宮崎氏は本書の執筆を提起されたキーパーソン)。また国の公的助成金(科学研究費補助金)を受けて本書などに関わる研究費が捻出され、本書の執筆にあたっては研究仲間らのコメントや、公私共にパートナーである大阪大学深尾葉子准教授との議論も貢献されたそうだ。どうりで大胆な発想だけではない、よく練り上げられている一冊だ。今更、自分の言葉を付け加えるまでもないが、論語に興味がなかった初学者向け(特にドラッカーなら分かるかも…と思えるビジネスマン)にお勧めしたい。なお、書き下し文は、ぜひ声に出して読んでいただきたい。不思議なことだが、難しい文章ほど音読効果を実感できるはずだ。

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