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若者よマルクスを読もう〜20歳代の模索と情熱〜

 内田樹×石川康宏著『若者よ、マルクスを読もう〜20歳代の模索と情熱〜』を読んだ。

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(以下、内田氏「まえがき」より一部抜粋)

(略)「マルクスの名前くらいはちょっと知っているけれど、読んだことのない一〇代の少年少女」というのがぼくたちの想定読者です。こういう「初心者のために、むずかしいことをばりばりと噛み砕いてご説明する」という仕事が石川先生もぼくも大好きです。(略)

 例えば、「野球」というものを見たことのない人に、それがどういうゲームであるかを説明するという状況を想像してみてください。けっこうむずかしいですよ。「ボール」と「ストライク」という基本単語からして意味が二つあるんですから。「ボールだと思ってストライクせずに見逃したボールを球審は『ストライク』とコールした」なんていうセンテンスを野球を知らない人が理解できるはずがありません(略)

 ぼくたちはこの本で「マルクスはすごいぞ(だから、ぜひ読んでね)」ということをマルクスの「マの字」も知らない若者たちにご理解いただきたいと思っています。そのためには「へーゲルがすべった」とか「レーニンが転んだ」といった「継投策の当否」や「強攻か犠打か」に類するようなテクニカルな話(している当人はそれこそいちばん緊急かつ重要な論件だと思ってしているのでしょうけれど、知らない人からはまったく意味不明の話)はひとまず脇へ置いて、「マルクスのマの字も知らない人」でもわかる「マルクスのすごさ」というものを明らかにしなければならないと思っています。(略)

 とりあえず、みなさんにわかっていただけるように、やるだけのことはやります。そして、大の大人たちが汗だくになって初心者に説明しようと躍起になっているさまを見た若い人たちが「そこまでしても『わかってほしい』くらいにマルクスはこのおじさんたちにとって魅力的であり、そこまでしても『わからせられない』くらいに深遠な思想家なのか」と思ってくれれば、ぼくはそれで満足しようと思っています(石川さんはそれでは物足りないかも知れませんけれど)。

 本書はカール・マルクス(ドイツの経済学者・哲学者・思想家・共産主義運動の指導者)とフリードリヒ・エンゲルス(ドイツの思想家・ジャーナリスト・実業家・共産主義者・国際的な労働運動の指導者)による著作・共作をメインに取り上げた初心者向けの解説本である。著者は、神戸女学院大学の元同僚で、現在もプライベートで交流を続けている内田樹氏×石川康宏氏との往復書簡という体裁を取っている。(本書でも度々言及されているが)マルクス主義者を自認する石川氏と、マルクスから多大な影響を受け敬意を表しつつも、一般的な学説にはあまり囚われず独自の読み方を披露する内田氏との立ち位置は、かなり異なっている。(以下、内田氏「経済学・哲学草稿」より一部抜粋)

あれからから四〇年経ちました。でも、その点では、日本人の政治意識はさして変わっていないようです。「自分の反対者を含めて全体を代表する」ことができるためには、それなりに懐が深くて、フレキシブルで、きちんと背筋の通った政治の言葉が必要です。国際社会や外交戦略についても語れるし、私人のリアルな生活実感もすくい上げることができるようなタフな政治の言葉が必要です。そういう言葉を鍛え上げてゆくためにぼくたちは何事かをしてきたのだろうかと思うと、ちょっと悲観的になります。

 ぼくは石川先生とのこの往復書簡がそういう「タフでしなやかな政治の言語」をつくりだすための一つの試みにはならないだろうかと考えています。もちろん、マルクスについて若い人にもわかるように、噛み砕いて解説するということが本書の第一義なんですけれど、それと同時に、ぼくたちのような、それぞれ政治的立場も意見も違う人間同士が、愉快かつ礼儀正しく政治について対話ができて、それぞれがそこから生産的な知見を汲み出しているということを実例として示すということが、けっこうたいせつなんじゃないかと思うのです。

 ぼくは今回の石川先生からの書簡の中で、ユダヤ人問題をめぐって「異論」を提示された箇所について、その語り方の配慮の細やかさにちょっと感動しました。石川先生って、「あなたの言うことは違う」とは直接的に言わないんですよね。ぼくと石川先生の間ですから、「違うよそれは」「違わないね、ふん」というカジュアルな(かつややワイルドな)やりとりがあっても別に明日からの人間関係にまるで支障はないのですけれど、そういう態度はここでは自制しよう、と。

つまり本書は二人のマルクス好きが「あそこ、よかったよね〜」「だよね〜」的な、ナアナアな”対談”を文字起こした書籍ではない。”教えるのが心底好きな”二人が、持ち前の教育熱を発揮して、高校生レベルの読者に配慮し、必要な情報を整理し、論点を明確にさせながら、互いの解釈を「私はこう読みますが、あなたはどうですか?」と提示する、というのが基本パターンだ。ただし現役の学者である石川氏の文章は(お恥ずかしながら)よく分からなかった。彼に期待されていた役目は、

マルクスの政治史的・思想史的系譜”を一瞥してから、重要な”テクストの意味”をとりあえず基本的なところをはずさないように目配りしてゆく(本書P35より一部抜粋)

ということらしいから、ある程度やむを得ないのかもしれないが、恐らく”置いてけぼり”を食らった読者は私だけではないだろう。学者にありがちな傾向だが、正確さを期すあまり原文の引用が多く、使用している語彙(専門用語)も一般人には読み慣れないものが多いのだ。私のような(適宜句点が使われないと)長い一文を読むことが苦手な読者にとっては、石川氏の文章は(導入部分の無駄話を除き)かなりの”苦行”であった。。しかし石川氏の書簡を受けた次の書簡で内田氏の”フォロー”が、ほぼ必ず入るので、何とか自分なりに整理しながら読み進めた。とはいえ、本書のテーマはマルクス自身ですらまだ体系的に自身の思想について整理できていない初期(マルクスが20歳代)の著作である。彼の思想の背景となる19世紀のドイツを取り巻くヨーロッパ史など歴史的経緯にも疎く、高校生レベルの読書力も怪しい自分に、よく分かるはずもない。。とりあえず明快な理解を諦め、やや投げやりな気持ちで本書を読み進めていたところ、内田氏の言葉がぐっと心に響いた。(以下、内田氏「ドイツ・イデオロギー」より一部抜粋)

(略)『ドイツ・イデオロギー』はまさにイデオロギー批判の書物なのです。

 「イデオロギー批判」というのは、「イデオロギーを批判した書物」のことではありません。「イデオロギーを批判するとはどういうことか」について書かれた本だとぼくは思います。

 だって、この本の中でマルクスが批判している青年ヘーゲル派がどんな思想を語っていたかというような話は、正直に言って、二一世紀の日本の高校生にとっては「どうだっていいこと」だからです。今の日本には思想界を牛耳っているヘーゲル・ナントカ派なんかいないんですから。マルクスがここで批判している当のイデオロギーがどういうふうにダメなのかというようなことは、とりあえず副次的な重要性しかないとぼくは思います。ここからぼくたちが読み出すべきなのは、マルクスが彼の同時代の風景のなかにひろがっている「あたかも自然物であるかのように映現しているものたち」、「地に融け込んでしまっているもの」をよりわけて、「額縁をつける(※引用者注参照)」その手際である。

※引用者注:前段で、内田氏は養老孟司先生の言葉を借りながら「額縁」の意味について、かなり紙数を割いて説明している。ざっくりまとめると、例えば絵画鑑賞時は、額縁があることで「ここに描いてあるものは、どれほど自然らしく見えても、つくりものだ」ということが観ている人にも分かる。「額縁」は人々を何らかの解釈に誘う装置なのだ。同様に社会における諸事象も「額縁」を、どこにつけるのか、何を「額縁」で囲むのか、ということは、とても大切な仕事であり、マルクスから、その方法論を学ぶことは国や時代が異なる現代の日本においても役にたつ、ということなのだろう。

 話は変わるが、私は、この国に在日外国人として長らく暮らしてきた。一応、法に触れるようなことはしていないし、納税ほか諸義務も果たしている。だが、選挙権や国家公務員への就職資格など様々な権利は制限されている。子供の頃から、”ガイジン(よそもの)”として扱われてきたので、そんな不公平な”ルール”に何となく矛盾を感じても「そういうものだ」「仕方がない」と、すっかり”諦め癖”がついてしまった。法律を学んで社会を変えようという大層な気概もなければ、大量の身元証明書類を提出してまで日本人に帰化するメリットも感じない。自分にできるのは、日本社会を取り巻くニュースを覚めた目で日々チェックし、内田氏の言う「額縁」を自分なりに考えながら生きることだと思っている。

 たとえ人間が見えない”線”で境界を区切っても、物・事・人は複雑に絡み合っているのが世の常だ。この歳にもなると、もはや「自分には関係ない」と思えることは、そう多くはない。ダイナミックに流動する世界情勢が報じられる中、”お子様内閣”と、その取巻き連中の、無様な有様を報道で見聞きするにつけ、腹立たしさが込み上がってくる。意識的に彼らを支える”有権者”、意図せずともこの状況を野放しにしている”有権者”らの気がしれない。おっと、毒舌が堰を切って溢れそうなところに、内田氏の言葉が思い出された。

 ぼくはここまで書いてきてわかったんですけれど、ぼくたちは若い人に「政治について礼儀正しく語る」という、今の日本ではたぶん誰も推奨していないことのたいせつさを知ってほしいと思っていて書いているんじゃないですかね。対話におけるディセンシー(礼儀正しさ)はしばしばそこで交わされている意見の当否や命題の真偽よりも重要である、と。

ごもっともな提言である。ディセンシー(礼儀正しさ)を欠いた怒りは何にも益しない。自戒を込めて強く賛同する。ちなみに本書と直接的には関係ないが、問題の核心と本質を、こんな”上品な物言い”で語ることができれば理想的だ。

  毎日新聞 時代の風

  偽ニュースと確証バイアス=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員

中国脅威論の非現実性
 首相夫人が名誉校長就任を引き受けていた私立小学校への、大阪府による異例の新設認可と、近畿財務局による異例の安価での土地提供の背景に、誰のいかなる判断が働いていたのか。公然とうそをついているのは誰か。当局は、適正手続き(デュープロセス)を重んずる法治国家であればマストであるはずの説明責任を果たさぬまま、追及側の根負けを待っているようだ。引き続き高止まりしている政権支持率が、彼らの強気を支えている。

 支持率はなぜ下がらないのか。昨年7月31日付の当欄で筆者は、いわゆる「中国の脅威」論が、中国への対…

  ※全文をニュースサイトで読む(登録要)

 https://mainichi.jp/articles/20170416/ddm/002/070/049000c

 

なお、本書の続編はこちら。

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(おまけ)

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※内田氏、名越氏の軽妙トークも愉快で面白いが、西靖アナウンサーの”仕切り”が見事!

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