のんびり寄り道人生

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養老孟司の人生論

 敬愛する養老先生の最新刊『養老孟司の人生論』を読んだ。

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 最新刊とは言っても、本書は2004年にマガジンハウスから刊行された『運のつき』(2007年、新潮文庫)を復刊し、改題したものだという。

 養老先生のご著書(講演を書き起こしたテキストを含む)はほぼ読んでいると思い込んでいたのだが、この本は初めてだったようだ。本書で語られているテーマのほとんどは従来の著書等でも語られていたことの(表現を変えた)繰り返しであり、時代の荒波に翻弄される我々に向けた方法論の伝授なのだと理解したのだが、1つだけ何とも不思議に思えることがあった。

 養老先生は、これまで読者(聴衆)の理解を助けるための配慮として、必要最低限しかプライベートを語られない印象がある。だが、珍しくご自身の感情や人生(過去)について、本書ではかなりオープンに語っていらっしゃるのだ。だが、そんな素朴な疑問も「あとがき」で種明かしされていた。(以下、『養老孟司の人生論』※改題前『運のつき』より「あとがき」を一部抜粋)

  講演をすると、終わったあとで訊かれることがあります。「どうして、先生みたいなことを考えるんですか」。(引用者:略)

 この本は、私がいうこと、書くことの根拠を、自分の人生から掘り出そうとした試みです。講演や著書には、根拠が明瞭なことばかりを書いているわけではありません。その根拠を、できるだけ自分で探してみようとしました。

 これはだれにでもあることでしょう。つまりなにかをいうんですが、それにはそれまで生きてきた、自分の人生という根拠がある。その根拠が他人に見えるときも、見えないときもあります。科学であれば、その根拠は「疑いの余地なく明白に」示さなければなりません。一般の話では、なかなかそうもいきません。でも、ともあれそこには、なんらかの根拠がある。そのなかでいちばん大きいのは、その人の過去でしょう。私自身について、ここではそれをできるだけ調べてみたわけです。

 なるほど解剖学で培って来られた科学的な方法論を使って、ご自身(の人生)を解剖対象として”解剖の一般公開”を試みたというわけか。相変わらず独自の社会貢献活動として、この頃もひたむきな試みをされておられたんだなぁと感心しながら、次のページを繰った。すると「復刊のあとがき」と題した2016年7月現在の養老先生がコメントを寄せておられた。(以下、『養老孟司の人生論』の「復刊のあとがき」全文)

  この本でも書いておきましたが、人は変わります。むろん考え方も変わってしまうんです。でも書かれた文章は変わらない。だから自分の本でも、年数が経ってから読むと、なんだか具合が悪いところがあります。でも当時はそう考えていたんだから、それはそれで仕方がないんですね。それが「私」なんです。

 今のほうが進歩しているはずだから、書き直せばいいじゃないか。そうではないんですね。今のほうが進歩しているかどうか、それもわかりません。そもそも私は八十歳に近いんですから、かなりボケが入っている可能性があります。

 この本をあらためて今書くとしたら、どうするか。それは考えてみました。たぶんずいぶん短くなると思います。どんどん切り詰めちゃう。それで良くなるかって、それもわかりません。ただ、この本を書いた当時に比べて、頭の中で万事が簡単になったことは確かだと思います。ひょっとすると、それは、感情が整理されたからかもしれません。年齢を重ねると、感情は背景に引いていきます。同時に行動する動機も弱くなります。だからこの本をあらためて書けといわれても、書かないでしょうね。

 日本語の表現では、右の感情を「思い」とも言いますね。「思い」が軽くなるんです。こうして万事が薄れて、やがて消えていく。それが普通なのだと思います。

  本書の執筆時には、きっと熱い「思い」と「使命感」をもって、ご自身のことをさらけ出されたのだろう。それから12年もの歳月を経て「ちょっと言い過ぎたな…」とばかりにクールダウンしているトーン変化が微笑ましい。しかし、そんなご自分の”若気の至り”さえも受け入れながら、これまで何度も強調されてきた諸行無常の世界観に見事に着地されるとは(あっぱれ)!ようやく表紙裏を飾る、ごく当たり前の、シンプルなメッセージの真意が飲み込めた。(以下、『養老孟司の人生論』の表紙裏より)

 

 人は生まれて、歳をとって、

どこかで病気になって、

最後に死にます。

まだ私は死んでませんけど、

いずれ死ぬでしょう。でもそれは、

みなさんも同じです。