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のんびり寄り道人生

何とかなるでしょ。のんびり生きましょう

そして<彼>は<彼女>になった

 細川貂々(てんてん)・著『そして<彼>は<彼女>になった―安冨教授と困った仲間たち―』を読んだ。

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 以前、このブログでも紹介した安冨歩東大教授トランスジェンダーについて扱ったノンフィクション・コミックエッセイということで読み始めたのだが、主題のメインはやっくん(安冨教授)の”戦友”であり、パートナーでもあるふうちゃん(深尾葉子阪大准教授)の毒親奮闘記の方であった。著者である漫画家の貂々さん自身が母親との葛藤を描いた『それでも母が大好きです』を先に上梓されていることからも推測されるが、やはり同じ立場の女性として描きやすいところがクローズアップされた結果だろう。

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 ”母”を巡って繰り広げられる、二人の主人公の抱える葛藤は深く重いが、貂々さんのコミカルな筆致で一気に読み進めることができた。一部の人々(特に女性)にとっては随所に共感できる内容、心に刺さるセリフの連続だろう。私自身、意識の上では忘れていた記憶や感情が想起されて、軽く流し読むつもりが、思いのほか深く考えさせられてしまった。

 世間では”毒親”を扱った本が売れているらしいが、本書の意図は、ただ子が母を悪者にして清々したいのではなさそうだ。本編に続く「あとがきのようなコラム(主人公たちと著者による対談)」を丁寧に読み進めると、主人公たちの確固たる意志と、良い意味での諦念がよく伝わってくる。彼ら自身も子を持ち、親の立場であるからこそ、現在進行形で親子問題を考え続けているのだろう。以下「あとがきのようなコラム」より抜粋。太字は引用者

やっくん:私も不安でしたよ。今回初めて本当に一人になるわけだから。でも、私が家を出てからは、みんなが少しずつ落ち着いてきたよね。

ふうちゃん:やっくんだって、もともと人に気をつかえないタイプなのにつかおうとして空回りしてたし、モノをやみくもに散らかしまくるやっくんに対しては、私もかなりイライラモードだったし。ある意味でみんなが本当の限界だった。人間には独立と尊厳を維持するための距離と空間が必要なんだよね。

(略)

ふうちゃん:最初に黄土高原に行って衝撃を受けたのは、家族ってこんなふうになれるんだ、ってこと。人間としての家族がそこにあったというかね。日本みたいに便利じゃないってこともあるけど、おじいちゃん、おばちゃん、お父さん、お母さん、息子たち、娘たち、孫たち。いつも全員が一緒に暮らしているわけではないけれど、いざというとき、各地に散らばってそれぞれがいろんなネットワークをもっている家族が一斉に集まって力を合わせて助け合う。たとえばごはん一つ作るのも、そこにいる人全員が総出でやる。子育ても。主婦が一人で黙々と、ってあり得ない。そして私たちもそこに行けば家族の延長というか、自然にその一員になってしまう感覚ですね。そういう関係の中に身を置けることで、本当に安心する。だから毎年通ってしまう。

 子供が親や家族という閉じた世界から巣立ち、一人の人間として自立し、(耳の痛い話だが)”親や家族は、もう懲り懲り”と単独で生きるのではなく、新たなネットワークを形成しながら世界を広げていく。絵に描いた理想論かもしれないが、人間のあるべき姿なのだろうなぁと思う。

 家族の問題を始め、世の中には難しい問題が山積している。ある人には「当たり前なこと」、「簡単に解決できること」でも、ある人にとっては受け入れ難い(頭では分かるが受け入れられない)ことが多々ある。人生をスマートに生きている人は、その場限りの”分かった振り”と”世間の常識”で、問題から”逃げ遂せる”こともできるのだろうが、いつかは真正面から向き合わざるをえない時が来るんじゃないかな?家族に恵まれて幸せを謳歌している人たちにとって、この種の本のメッセージは所詮、自分とは違う世界にいる人たちの他人事に過ぎないのかもしれないが、これくらい”嚙み砕いた”表現でないと、そういう人たちに”心の葛藤”は伝わらないんじゃないかな?とも思う。

  少し脱線する。身近な人間観察を通して常々感心するのだが、学者という人種の長所は、簡単には解けない問題でも、すぐには投げ出さないことだ(もちろん人にもよるが)。往生際になっても諦めが悪かったり、結構要領も悪かったりする。また棚上げし、長期間”ほったらかす”こともある。しかし、こちらが忘れた頃に(ふと思い出すのか?何か閃くのだろうか?)問題を集中して解き始める。三年寝太郎の昔話じゃないけれど、普段ゆるく、脱力しているからこそ、いざとなれば常人が真似できないような集中力を発揮するのかもしれない。

 話を戻す。考えることを仕事にしている二人の学者(主人公)の”成果”に、大いに期待を寄せている。いつか安冨教授、深尾准教授には自身の言葉で本書の続編を執筆していただきたい。とりわけ安冨教授にはマイノリティな性と向き合いながら、思索し行動する学者として、”世間の理解”を促すために必要な表現力が備わっているように見受けられる。我が身を晒すことで、数々の苦労もあるだろうが、”捨て石”の役割を進んで引き受けるつもりならば、世間の認知はきっと進むだろうと思う。